『オデュッセイア』第1巻第1–43行――帰還を求める人と神々の言葉


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ムーサへの呼びかけ

その人を私に語ってくれ、ムーサよ、数多の機略に富む人を。 彼はトロイアの聖なる城を滅ぼしたのち、まことに数多くさすらった。 多くの人々の町々を見、その心を知り、 海では、おのが胸に多くの苦しみを受けた、 自分の命と仲間たちの帰還を勝ち取ろうとして。 それでも仲間たちを救えなかった、そう願いながらも。 彼らは自らの無謀によって滅びたのだ、 愚か者たち、彼らはヒュペリオンなるヘリオスの牛どもを 食らった。すると彼は彼らから帰還の日を奪った。 これらのことを、いずこからなりとも、女神よ、ゼウスの娘よ、私たちにも語ってくれ。

ただ一人帰れぬオデュッセウス

そのとき、ほかの者たちはみな、苛烈な滅びを逃れた者のかぎり、 戦と海を逃れおおせて、故郷にいた。 ただ彼ひとりは、帰還と妻を切望していたのに、 貴いニュンペー、女神たちの中でも光り輝くカリュプソが引き止めていた、 深くえぐれた洞窟の中に、彼を夫にしたいと願って。 しかし、巡る歳月のうち、ついにその年が来た―― 神々が彼のために、故郷イタケへ帰る定めを紡いだ年が。 だがそこでも、彼は苦難を逃れきってはいなかった、 親しい者たちのあいだでさえ。神々はみな彼を憐れんでいた、 ポセイドンを除いて。彼だけは絶え間なく憤りつづけた、 神にも似たオデュッセウスが自分の故国に着くその時まで。

ポセイドン不在とゼウスの言葉

だが彼は遠く離れたエチオピア人のもとへ赴いていた―― 人々の果て、二つに分かれて住むエチオピア人のもとへ、 ある者はヒュペリオンの沈む方に、ある者は昇る方に、 雄牛と羊の百頭供犠に立ち会うために。 そこで彼は宴に連なって楽しみ、他の神々はみな オリュンポスのゼウスの宮殿に集まっていた。 その中で、神々と人々の父がまず口火を切った。 心のうちに、非のないアイギストスを思い出したからだ、 名高いオレステス、アガメムノンの子が殺した者を。 彼を思い出し、彼は不死なる者たちに向けて語った。 「ああ、なんということか、死すべき者たちは神々を責める、 我々から災いが来る、と言う。だが彼ら自身も、 おのが無謀によって、運命を越えた苦しみを負う、 まさに今、アイギストスも運命を越えて、アトレウスの子の 妻となるはずの女を娶り、帰還した彼を殺した、 大いなる滅びを知りながら――我々が前もって彼に告げていたのに、 目ざときアルゲイポンテース、ヘルメスを遣わして、 彼自身を殺すことも、その妻を求めることもするな、と。 なぜならオレステスからアトレウスの子への報復が成るからだ、 彼が成長し、みずからの国を切望する時に。」 こうヘルメスは語ったが、アイギストスの心を 善き忠告をもって説き伏せることはできなかった。だが今や彼はすべてを償った。

平易な日本語
詩人はムーサに、知恵と経験を重ねたオデュッセウスの物語を語ってほしいと頼む。トロイア戦争のあと、オデュッセウスは仲間たちと帰国を目指したが、仲間たちは太陽神の牛を食べたため命を落とした。生き残ったオデュッセウスも、カリュプソに引き留められ、故郷へ帰れずにいる。ゼウスは、神々の警告を無視してアガメムノンを殺したアイギストスを例に、人間が自らの無謀さによって苦しむこともあると語る。

訳注

ムーサへの呼びかけ

ムーサ — 詩歌を司る女神。詩人は物語の知と語りをムーサに求める呼びかけから叙事詩を始める。

トロイア — ギリシャ軍が長年包囲した都市。冒頭では、その陥落後も主人公の帰還が長く妨げられたことが示される。

帰還 — 故郷へ戻る旅と、その成就を意味する。主人公自身の帰還だけでなく、仲間たちが失った帰還も冒頭の中心に置かれている。

ヒュペリオンなるヘリオス — 太陽神ヘリオス。「ヒュペリオンなる」は、その高みを行く性格を示す呼称。仲間たちがその牛を食べたため、帰還を奪われたことが冒頭で予告される。

ゼウスの娘 — ムーサを指す呼びかけ。詩人は第1行の「ムーサよ」を、冒頭の意味単位の末尾で言い換えて再び呼びかける。

ただ一人帰れぬオデュッセウス

ニュンペー — 山野、泉、樹木、海など自然の場所と結びつく女神的存在。ここではカリュプソを指す。

カリュプソ — オデュッセウスを自らの洞窟に引き止め、夫にしたいと願う女神。このため、ほかの生存者が帰郷したあとも、彼だけは帰還できずにいる。

イタケ — オデュッセウスの故国。神々は彼がここへ帰る定めを紡ぐが、帰国後にも苦難が残ることが予告される。

ポセイドン — 海を司る神。ほかの神々がオデュッセウスを憐れむなか、ただ一人、彼の帰還まで怒りを持続させる。

神にも似たオデュッセウス — 主人公に添えられた叙事詩的な定型表現。ここでは、神にも似る英雄でありながら一柱の神の怒りを受け続けるという対照も生む。

ポセイドン不在とゼウスの言葉

エチオピア人 — 詩中では、太陽神が沈む方と昇る方の二つに分かれて住む、世界の果ての民として描かれる。ここではポセイドンがその供犠の宴に赴いている。

ヒュペリオン — 太陽神ヘリオスに結びつく呼称。第24行では、その沈む方と昇る方がエチオピア人の居住地の両端として示される。

アイギストス — アガメムノンの帰還時にその妻を娶り、帰還したアガメムノンを殺した人物。ゼウスは、神々のせいにされる災いと人間自身の無謀を区別する例として彼を挙げる。

オレステス — アガメムノンの子。アイギストスを討ち、父への報復を果たす者として予告される。

アガメムノン — 「アトレウスの子」とも呼ばれる人物。第30行ではオレステスの父として、また第36行では帰還したところを殺された人物として示される。

ヘルメス — 神々の警告をアイギストスへ伝える使者。

アルゲイポンテース — ヘルメスに添えられた底本の形容。底本脚注に従い、ここでは固有名のように転写し、「アルゴス殺し」と断定する訳語は採らない。

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