本シリーズでは、ヘシオドス『神統記』を意味のまとまりごとに訳し、読者向けの訳注を添えて掲載します。この記事では第1–115行「序歌」を収録します。
序歌(第1–115行)
1 ヘリコンのムーサたちから、歌い始めよう。
2 彼女たちはヘリコンの、大いなる、いとも神聖な山を領し、
3 菫色の泉と、しなやかな足で
4 強大なクロノスの御子の祭壇をめぐって舞う。
5 そしてペルメッソスで柔らかな肌を洗い、
6 あるいは馬の泉で、あるいは神聖なオルメイオスで身を清め、
7 ヘリコンの頂に、美しく、
8 心を誘う舞いの輪をつくり、力強い足取りで舞った。
9 そこから立ち上がり、濃い靄に身を包んで、
10 夜を進んだ、こよなく美しい声を放ちながら、
11 アイギスを帯びるゼウスと、尊きヘラを讃え、
12 黄金の履物を履いた、アルゴスの女神を讃え、
13 アイギスを帯びるゼウスの娘、輝く眼のアテナを、
14 ポイボス・アポロンと、矢を注ぐアルテミスを、
15 大地を保ち、大地を揺るがすポセイドンを、
16 尊きテミスと、まなざしを巡らすアプロディテを、
17 黄金の冠のヘベと、美しいディオネを、
18 レトとイアペトスと、曲折の策をめぐらすクロノスを、
19 エオスと、偉大なヘリオスと、輝くセレネを、
20 ガイアと、偉大なオケアノスと、黒きニュクスを、
21 そして、常しえにあるほかの不死なる神々の聖なる一族を。
22 その女神たちが、かつてヘシオドスに美しい歌を教えた、
23 いとも神聖なヘリコンの麓で、子羊を飼っていた彼に。
24 そして女神たちは、まずこの言葉を私に向けて語った、
25 オリュンポスのムーサたち、アイギスを帯びるゼウスの娘たちは――
26 「野に住む羊飼いたち、卑しい恥さらし、腹ばかりの者どもよ、
27 私たちは、真実に似た数多くの偽りを語るすべを知っている、
28 そして、望むときには真実を告げるすべも知っている。」
29 こう、偉大なゼウスの、言葉に巧みな娘たちは語った。
30 そして私に杖を与えた――よく茂る月桂樹の枝を
31 折り取った、驚くべき杖を。さらに私に声を吹き込んだ、
32 神授の声を、来たるべきことと、かつてあったことを讃えるために。
33 そして私に、常しえにある祝福された神々の一族を讃え、
34 彼女たち自身を、初めにも終わりにも、つねに歌えと命じた。
35 だが、なぜ私に、樫や岩をめぐるこの話が要るのか。
36 さあ、ムーサたちから始めよう。彼女たちは父ゼウスを
37 歌い讃えて、オリュンポスの内なるその偉大な心を喜ばせる、
38 今あること、これからあること、そしてかつてあったことを語り、
39 声を一つに合わせて。その疲れを知らぬ声は
40 口々から甘美に流れ、父なる
41 雷鳴轟くゼウスの館は、女神たちの百合のような声が
42 広がると微笑む。雪のオリュンポスの頂と
43 不死なる神々の館は鳴り響く。彼女たちは不死なる声を放ち、
44 まず、畏敬すべき神々の一族を歌で讃える、
45 初めから――ガイアと広きウラノスが生んだ神々を、
46 また、その神々から生まれた、よきものを授ける神々を。
47 次にゼウスを、神々と人間の父を、
48 歌を始めるときにも、歌を終えるときにも讃え、
49 神々のうち、彼が力においていかに最も優れ、最も偉大であるかを歌う。
50 さらに、人間の種族と、力強いギガンテスの種族を
51 歌い讃えて、オリュンポスの内なるゼウスの心を喜ばせる、
52 オリュンポスのムーサたち、アイギスを帯びるゼウスの娘たちは。
53 その娘たちをピエリアで、父なるクロノスの御子と交わって、
54 ムネモシュネが生んだ、エレウテルの丘々を治める女神が、
55 災いを忘れさせるもの、心労からの休息として。
56 九夜にわたり、策に富むゼウスは彼女と交わった、
57 不死なる神々から離れ、聖なる寝床へ上って。
58 そして一年が巡り、季節がめぐって、
59 月々が欠けゆき、多くの日々が満ちると、
60 彼女は心を一つにする九人の娘を生んだ。彼女たちの胸には
61 歌への思いがあり、憂いのない心を持っている、
62 雪のオリュンポスの最も高い頂から、わずかに下ったところに。
63 そこには彼女たちの輝く舞いの場と、美しい館がある。
64 そのかたわらにはカリテスとヒメロスも住まいを持ち、
65 祝宴のうちにいる。ムーサたちは口から心誘う声を放ち、
66 不死なる神々すべての掟と、尊ぶべきあり方を歌い、
67 心楽しい声を放ちながら、神々を讃える。
68 その時彼女たちは、美しい声を誇りながらオリュンポスへ進んだ、
69 不死なる歌を響かせて。歌う彼女たちのまわりで黒き大地は鳴り、
70 その足もとからは、心誘う足音が湧き起こった、
71 自らの父のもとへ進む彼女たちの。父は天を統べていた、
72 自ら雷鳴と、燃え輝く雷霆を手にして、
73 力によって父クロノスに勝利したのち。そして不死なる神々に
74 すべてをよく等しく配し、その権能を告げ示した。
75 それらのことをムーサたちは歌った、オリュンポスに館を持つ、
76 偉大なゼウスから生まれた九人の娘たち、
77 クレイオ、エウテルペ、タレイア、メルポメネ、
78 テルプシコレ、エラト、ポリュムニア、ウラニア、
79 そしてカリオペ。彼女こそ、すべてのムーサのうちで第一の者である。
80 というのも彼女は、尊ぶべき王たちにも寄り添うからである。
81 偉大なゼウスの娘たちが尊び、
82 ゼウスに養われる王たちのうち、誕生を見守る者には、
83 その舌の上に甘い露を注ぎ、
84 その口からは蜜のような言葉が流れる。民はみな
85 彼を見つめる、彼が裁きを分かち、
86 真っ直ぐな判決を下すとき。彼は揺るぎなく語り、
87 たちまち大きな争いさえ、心得深く鎮めるだろう。
88 それゆえ王たちは思慮深い。民が
89 集会で害を受けたとき、曲がった事を元へ戻すからである、
90 容易に、穏やかな言葉で説き聞かせて。
91 彼が集会へ来ると、人々は神のように迎え、
92 柔和な畏敬を示す。集う者たちのなかで彼はひときわ輝く。
93 これこそ、ムーサたちが人間に授ける神聖な賜物である。
94 実に、ムーサたちと、遠矢射るアポロンから
95 地上の歌人と竪琴弾きは生まれ、
96 王たちはゼウスから生まれる。幸いなのは、ムーサたちが
97 愛する者。その口からは甘美な声が流れる。
98 たとえ誰かが、新たな悲しみを抱く心に嘆きを持ち、
99 胸を痛めて憔悴していても、ムーサたちに仕える歌人が
100 昔の人々の誉れと、
101 オリュンポスに住む至福の神々を歌えば、
102 彼はたちまち憂いを忘れ、苦しみを
103 もはや覚えていない。女神たちの賜物が、速やかに心を転じたからである。
104 喜びあれ、ゼウスの娘たちよ。心誘う歌を授けよ。
105 そして、常しえにある不死なる神々の、聖なる一族を讃えよ、
106 ガイアと星輝くウラノスから生まれた者たち、
107 また暗きニュクスから生まれた者たちと、塩辛きポントスが育てた者たちを。
108 語れ、まず初めに、神々と大地がいかに生じたか、
109 河々と、波立ち鳴る果てない海が、
110 輝く星々と、その上の広き天がいかに生じたか、
111 [そして彼らから生まれた、よきものを授ける神々が。]
112 また、彼らがいかに富を分け、いかに権能を分配したか、
113 そしてまず初めに、いかに幾重もの襞をもつオリュンポスを得たかを。
114 それらを私に語れ、オリュンポスに館を持つムーサたちよ、
115 始めから。そして語れ、そのうち何が最初に生じたのかを。
訳注
ヘリコン
ボイオティア地方の山。ムーサたちの聖地として歌われる。
馬の泉
ヘリコン山の泉ヒッポクレネ。「ヒッポクレネ」はギリシャ語で「馬の泉」を意味する。
クロノスの御子
ここではゼウスを指す。本文は直後の祭壇の主を、父クロノスに基づく呼称で示している。
アイギス
ゼウスやアテナに結びつく神威のしるし。盾または胸当てのように表されることがある。
オケアノス
世界を取り巻く大河として人格化された神で、通常の海そのものとは区別される。
月桂樹の枝
ムーサたちが詩人へ授ける杖。神から歌う権能を委ねられたことを示す。
樫や岩
脇道の話を打ち切り、本題へ戻るための諺的な言い回し。第36行からムーサたちへの新たな呼びかけが始まる。
百合のような声
原文がムーサたちの声に与える比喩。百合のどの性質を声へ移した表現かは確定しにくいため、比喩を訳文に残した。
ウラノス
天空を人格化した神。ガイアとともに、初期の神々を生む存在として現れる。
ギガンテス
大地に結びつく力強い神族。ここでは人間の種族と並び、ムーサたちが歌う対象として挙げられる。
ピエリア
オリュンポス山の北側に広がる地域。本文では九柱のムーサたちの出生地とされる。
ムネモシュネ
「記憶」を人格化した女神。ゼウスとの間に九柱のムーサたちを生む。
カリテスとヒメロス
カリテスは美と喜びをもたらす女神たち、ヒメロスは恋慕や憧れを人格化した神。ムーサたちの住まいのかたわらにいる。
雷霆
ゼウスが手にする雷の武器。雷鳴と並べて、クロノスに勝利し天を統べるゼウスの力を示す。
カリオペ
九柱のムーサの最後に挙げられ、全員のうち第一とされる女神。後代には特に叙事詩と結びつけられる。
ゼウスに養われる王たち
王の権威と働きがゼウスの庇護に支えられることを表す定型的な呼び方。文字どおりの養育だけを意味しない。
遠矢射るアポロン
遠くまで矢を届かせる力を表すアポロンの定型的な呼び名。ここではムーサたちとともに、歌人と竪琴弾きの技芸の源とされる。
ポントス
海を人格化した神。第107行では神名として現れ、第109行の一般的な「海」と区別される。
幾重もの襞をもつオリュンポス
多くの稜線や谷が折り重なる山容を表す形容。神々が最初にその住処を得た経緯が問われている。