『いわゆる死者たちの霊が書いた本』標題紙から第I章「緒論」まで


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本記事から、C. G. ヘレベリが1883年にシンシナティで刊行した A Book Written by the Spirits of the So-Called Dead を、巻頭から順に読み始めます。

この本は、霊媒を通じた「独立石板書記」によって、霊たち自身が通信を書いたのだと編者が主張する記録です。以下の心霊現象、死後存続、霊からの通信に関する記述は、原著者の主張と体験談を翻訳したものであり、ワヤナタや翻訳者が事実として認定するものではありません。

今回読む範囲

今回読むのは、C. G. Helleberg, A Book Written by the Spirits of the So-Called Dead(Cincinnati, 1883)の標題紙・刊記と、第I章「緒論」全文です。

標題紙

いわゆる死者たちの霊が書いた本

霊たち自身の物質化した手によって、独立石板書記法の過程を通じ、霊媒としてのリジー・S・グリーン夫人その他によって書かれたもの。

編纂・配列

C. G. ヘレベリ

オハイオ州シンシナティ在住

刊記

C. G. ヘレベリ発行、41 East Third St. にて販売。

シンシナティ

1883年

著作権表示

著作権表示:1882年

C. G. ヘレベリ

霊からの通信

第I章 緒論

この小著に収めた通信は、肉体を離れた霊から来たと称するもので、以下に述べる方法によって届けられた。私がそれらに関わったのは、そこに書かれていたものを、石板から、私がそのために用意した白紙の覚書帳へ、忠実に、一字一句そのまま書き写したことだけである。その通信が届けられる仕組みを読者に示す前に、まず私自身の来歴を簡単に述べるのが適切だと思う。私は身近な知人の輪の外ではほとんど知られていないので、とりわけその必要を感じている。私は生涯、神と人の前で正しく生きることを目指してきた。この若いころに立てた高潔な目的をどれほど果たせたかについては、近隣の人々、そしてオハイオ州シンシナティの有力市民の多くに尋ねていただきたい。私は彼らと、ほぼ四十年にわたって親しい社交上・仕事上の付き合いをしてきた。なぜ私が、次ページ以降に収めた実に驚くべき霊的通信の受け手となり、その保管者となったのかは、自分でも分からない。ただ、長い生涯を通じて正しいことを行おうと誠実に努めてきたため、ふさわしい者と見なされたのだろう。また、この仕事に関わる霊たちは、私が彼らと心を合わせて、示された事柄を世に知らせるだろうと知っていたのであり、幸いにもそのための資力を私が持っていた、という事情もあったのだろう。

私は一八一一年三月一日、スウェーデン王国ファールン近郊のグラフリセットに生まれ、今では七十一歳を越えている。十六歳でスウェーデン陸軍に入り、十九歳でウプサラ大学の学生となり、そこに二年間在籍した。五年間兵役に就き、試験にも合格した後、祖国の文官となることを許された。測量士として十年以上勤めたころ、共和制の制度がどのように働くのかを自分の目で見たいという望みが生じ、外国旅行の許可を申請したところ、二年間の許可を得ることができた。一八四四年、私は故国を離れてアメリカ合衆国へ向かい、一八四五年にオハイオ州シンシナティに居を定めた。その後まもなくダゲレオタイプ撮影の仕事に就き、さらに写真撮影にも携わった。そして翌年、シンシナティの有力で影響力のある市民であり、同市初期の名高い博物館の経営者として今なお記憶されているフレデリック・フランクスの娘、アニー・E・フランクス嬢と結婚した。宗教について言えば、私はルター派の家庭で育った。しかし、一八七九年に心霊主義を受け入れた時点でも、それに先立つ三十年間も、私は敬虔で熱心なスウェーデンボルグ派であった。一八七九年に心霊現象の調査を始め、やがて心霊哲学の崇高な真理を確信するようになった。

次ページ以降では、フレドリカ・エーレンボルグ夫人の高貴な霊が、太陽系の惑星である火星についての驚くべき情報をはじめ、さまざまな事柄を伝えている。そこで、ここで彼女の来歴をいくらか知らせておくのがふさわしいと思う。

彼女は一七九四年三月十五日、スウェーデン王国ヴェルムランド地方に生まれ、十七歳で、非常に尊敬されていた貴族カスパー・イサク・ミカエル・エーレンボルグと結婚した。彼は一八二三年に肉体を去ったが、その当時、スウェーデンの最高裁判官であった。エーレンボルグ夫人は熱心なスウェーデンボルグ派であり、一八七三年五月二十日、スウェーデンの都市リンシェーピングで高次の生へ移った。彼女の生涯は多くの点で波乱に富み、またその大部分は文学的な仕事に捧げられていた。彼女は宗教に関する著作をいくつもの言語からスウェーデン語へ翻訳し、スウェーデンボルグ主義のために書籍や小冊子を著し、著作の材料を求めてイングランド、スイス、デンマーク、ドイツ、フランスを訪れた。彼女が肉体を持っていたころにこの卓越した女性と会えなかったのは残念だが、私は幸いにも、彼女が肉体にあった最後の三年間、その人と実に教えられる、楽しい文通をすることができた。

私は一八八一年九月、名高い霊媒リジー・S・グリーン夫人と調査を始めた。以下の通信の大部分は、彼女の霊媒を通して書かれたものである。十か月の間、私は週二回を下回らない頻度で交霊会を開き、その大半の期間は週四回行った。そのため、彼女の真の人格を調べる十分な機会があった。その結果、私は真実に照らして、彼女の誠実さ、純潔、素朴な人格についての確信を世に宣言する資格がある。聞くところによれば、彼女の教育は幼いころにひどくなおざりにされ、その後も向上する機会はほとんどなかった。彼女は十八歳になる前に、インディアナ州オーロラのエドワード・H・グリーン閣下と結婚し、それ以後最近まで、家庭の仕事と子育てに人生を捧げてきた。子どものうち生き残っているのは娘一人だけである。夫は、一八六六~六七年のインディアナ州議会で、数多くの知的な有権者から成る選挙区に有能に仕え、さらに近年には、故郷オーロラ市の市長を二年任期で二期務め、広く受け入れられた。

この本に収めた霊の通信は、霊たち自身の物質化した手によって書かれたもので、その過程はおおむね次のようなものだった。普通の造りの小さな台をテーブル掛けで覆い、霊媒は片手をその覆いの下へ入れて、そこに小さな鉛筆片を置いた石板を持った。霊媒のもう一方の手は、全体の身体と同じく、絶えず皆の目にさらされていた。二枚組の石板も一枚石板も使った。私たちは書かれていく音を聞き、石板がいっぱいになると、石板を叩くはっきりした音と鉛筆が落ちる音によって、それが示された。すると石板を取り出し、選ばれた筆記者である私は、先ほど述べた帳面へ書かれた内容を忠実に転記した。その後、石板をきれいにして台の下へ戻した。このようにして、以下に記すすべての内容が作られたのである。私はそれを、少しも変えず、何一語も加えず、何一語も取り去らず、逐語・逐字どおりに報告した。各回の交霊会は一時間から二時間ほど続き、真昼の明るい光の中で行われた。私はこれらの通信のいくつかに、説明と理解の明確化のため、数行の前置きを付した。

この本はまさに霊たち自身が書いた本であり、そこにどれほどの長所があるとしても、その功績は霊たちだけに帰せられる。また、もし短所があるとしても、その責任と負担も霊たちだけが負うべきである。この点について、霊媒たちと私は、必要なら宣誓してもよいほど確かに証言できる。すなわち、通信する知性に必要な条件を整える手助けをしたことを除けば、通信の制作に私たちはまったく関与していない。

私はこの仕事を世に送り出すにあたり、不信と懐疑に満ちた時代に、それがどのように受け取られ、どんな運命をたどるのかを案じずにはいられない。それでも、たとえわずかな程度であっても、人のためになることに役立てばよい、それだけで私の時間と労苦への十分な報いとなる、というのが私の唯一の望みである。

カール・グスタフ・ヘレベリ

オハイオ州シンシナティ、オーバーン街177番地


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