ヴェールを脱いだイシス 第1巻「ヴェールの前に」(4)


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ヴェールの前に(4)

スペウシッポスは、心的な、あるいはテュメティックな魂が、霊、すなわち理性的な魂と同じく不死であると教えたようである。その理由については後で示すことにする。彼はまた、魂について論じたピロラオスやアリストテレスと同じく、エーテルを一つの元素とした。そのため、幾何学における五つの正多面体に対応する五つの主要元素が存在することになる。これはアレクサンドリア学派の教説にもなった。[12] 実際、フィラレテス派の教説には、古いプラトン学派の著作には現れないものが多くあった。しかし、それらはおそらく哲学者自身が実質的には教えていたものであり、ただ彼がいつもの慎重さから、無差別な公表にはあまりに秘奥なものとして、書き記さなかったのである。スペウシッポスと、その後継者クセノクラテスは、偉大な師と同じく、世界魂、すなわちアニマ・ムンディは神そのものではなく、一つの顕現であると考えた。これらの哲学者は、唯一者を生きた自然として考えたことがなかった。[13] 私たちが通常この語で理解する意味で、原初の唯一者は「存在」しなかった。唯一者が多なるものと結びつき、流出した存在、すなわち一者と二者が生まれて初めて、一つの存在者が生じたのである。尊ばれるもの、すなわち顕現した何ものかであるτίμιονは、中心にも周縁にも宿る。しかしそれは、神性、すなわち世界魂の反映にすぎない。[14] この教説には秘教的仏教の精神が見いだされる。

人間が抱く神の観念とは、自分の魂という凹面鏡に映る、まばゆい光の像である。しかしそれは真実の神ではなく、神の反映にすぎない。そこには神の栄光があるが、人間が見ているのは自分自身の霊の光であり、それが彼に耐えられるすべてなのである。鏡が澄んでいるほど、神的な像は明るくなる。しかし同時に、その鏡のなかに外界を見ることはできない。恍惚状態のヨーギン、光に照らされた予見者のなかでは、霊は真昼の太陽のように輝く。地上の引力に堕した犠牲者のなかでは、鏡が物質の汚れに曇っているため、その輝きは消えている。そのような人々は神を否定し、一撃で人類から魂を奪おうとする。

神もなく、魂もない? 恐ろしい、すべてを滅ぼす思想である! 狂人、すなわち無神論者の熱に浮かされた眼前に現れる、誰にも創造されず、自ら現れ、自ら存在し、自ら発展する宇宙物質の火花の、醜く絶え間のない行列。これは「自己」でありながら自己ではない。何ものでもなく、誰でもないからである。どこから来たのでもなく漂い、原因は存在しないため、いかなる原因にも動かされず、どこへも向かわない。そしてそれは、盲目的で不活性な、原因を欠いた永遠の円環のなかを進んでいく。最終的な無に至るまでに、無数の霊的変化と輪廻転生を経る仏教的涅槃の、誤った観念でさえ、これと比べれば何であろうか。その過程で存在者は、一瞬たりとも自分自身の個体性の感覚を失わず、最終的な無に到達するまでに何百万年もの時を要することさえある。

スペウシッポスをアリストテレスより劣ると考える者もいたが、それでも世界は、プラトンがその感覚的なものと観念的なものの教説において曖昧に残した多くの事柄を定義し、説明した彼に恩義がある。彼の格言はこうだった。「非物質的なものは科学的思考によって知られ、物質的なものは科学的知覚によって知られる。」[15]

クセノクラテスは、師の書かれざる理論と教えの多くを解き明かした。彼もまたピュタゴラスの教説を奉じ、数と数学の体系を非常に高く評価した。知識には三つの段階、すなわち思考、知覚、そして直観による知識である観照しかないと認め、彼は第一のものを天の彼方にあるすべてのものへ、知覚を天にあるものへ、直観を天そのものへと向けた。

著者脚注

[12] 『神学的算術』p. 62、「ピュタゴラスの数について」。

[13] プラトン『パルメニデス』141 E。

[14] ストバイオス『抜粋集』I、862。

[15] セクストス『数学論』VII、145。

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