ティマイオスの宇宙論は、「つねに存在するもの」と「つねに生成するもの」を区別するところから始まります。目に見え、触れることのできる宇宙は生成したものであり、何らかの原因をもつとされます。
では、宇宙の制作者は何を範型としたのでしょうか。ティマイオスは、美しい宇宙が永遠にあるものを写した「似姿」だと考えます。そして生成した宇宙についての言論にも、数学的な完全さではなく、似姿にふさわしい語り方が求められると説きます。
対話本文
ティマイオス(続) 私の考えでは、まず次のことを区別しなければなりません。つねに存在し、生成をもたないものとは何か。そして、つねに生成しているが、けっして存在しないものとは何か。前者は、推論を伴う理解によって把握され、つねに同一のあり方を保ちます。後者は、感覚を伴う非論理的な思い込みによって思い込まれるだけで、生成し、滅び、真に存在することは決してありません。
ティマイオス(続) さらに、生成するものはすべて、必然的に何らかの原因によって生成します。原因なしに生成することは、どんなものにも不可能だからです。
ティマイオス(続) そこで、制作者が、つねに同一のあり方を保つものを見つめ、そのような範型を用いて、あるものの形と力を作り上げるなら、そこから生じるものは必然的に美しく完成します。しかし、生成したものを範型として用いるなら、美しくはなりません。
ティマイオス(続) さて、全宇宙――これを「世界」と呼んでも、あるいは別のどんな名で呼んでも最もふさわしいなら、その名で呼ぶことにしましょう――について、まず初めに、あらゆるものについて最初に考えるべきことを考えなければなりません。それは、宇宙がつねに存在し、生成の始まりを何も持たないのか、それとも、ある始まりから始まって生成したのか、ということです。
ティマイオス(続) 宇宙は生成しました。見えるもの、触れられるもの、身体をもつものだからです。そして、そのようなものはすべて感覚されます。感覚されるものは感覚を伴う思い込みによって把握され、生成し、作られたものだと明らかになっています。また、生成したものは、何らかの原因によって生成しなければならない、と私たちは言うのです。
ティマイオス(続) この宇宙の制作者であり父である者を見いだすことは難しく、見いだしたとしても、それをすべての人に語ることは不可能です。それでも、制作者が宇宙をどちらの範型に向けて作ったのかを、もう一度考えなければなりません。つねに同一のあり方を保つものに向けてか、それとも生成したものに向けてか。
ティマイオス(続) この世界が美しく、制作者が善い者であるなら、明らかに、制作者は永遠にあるものを見つめていました。そうでなければ、口にすることさえ許されないでしょう。誰にとっても明らかなのは、制作者が永遠にあるものを見つめていたことです。生成したものの中で最も美しいものがこの世界であり、原因の中で最も善いものが制作者だからです。
ティマイオス(続) このように、言論と知性によって把握でき、つねに同一のあり方を保つものを目指して作られたのですから、この世界は、そうしたものの似姿でなければなりません。何よりも大切なのは、自然に従った始まりから始めることです。そこで、似姿と、その範型について、次のように区別しなければなりません。言論は、それが説明するものと同族であるからです。
ティマイオス(続) 安定し、確固としていて、知性とともに明らかになるものについて語る言論は、可能なかぎり安定し、変化せず、反証されることなく、揺るがないものでなければなりません。それに対して、あの永遠のものを写し取った似姿でありながら、生成したものについて語る言論は、あのものに比例した、似姿にふさわしい言論でなければなりません。生成に対して存在があるなら、信念に対して真理があるのです。
ティマイオス(続) ですからソクラテス、神々や宇宙全体の生成について、私たちがあらゆる点で互いに矛盾せず、完全に精密な言論を語ることができなくても、驚かないでください。もし、誰にも劣らず似姿にふさわしい言論を差し出せるなら、それを受け入れ、喜ばなければなりません。語る私も、あなた方審判者も、人間の本性をもつ者だからです。したがって、これらの事柄について、似姿にふさわしい物語を受け入れたなら、それ以上のことを探し求める必要はないのです』