『無限なるものとの調和』第I章――宇宙の根本事実


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宇宙の根本事実

宇宙の大いなる中心的事実とは、万物の背後にあり、万物に生命を吹き込み、万物の内に、また万物を通して自らを現す、無限の生命と力の霊があるということである。それは自存する生命の原理であり、すべてがそこから生じただけでなく、すべてが絶えずそこから生じている。個々の生命があるなら、そこには必然的に、その生命の源となる無限の生命の源がある。愛という性質や力があるなら、そこには必然的に、その源となる無限の愛の源がある。知恵があるなら、その背後には、知恵が湧き出る全知の源があるに違いない。平安についても、力についても、私たちが物質的なものと呼ぶものについても、同じことがいえる。

それゆえ、万物の背後には、万物の源であるこの無限の生命と力の霊がある。この無限の力は、宇宙全体を貫き、あらゆる側から私たちを取り巻く、大いなる不変の法則と力を働かせて、創造し、活動し、統べている。私たちの日々の暮らしの一つ一つの営みも、同じ大いなる法則と力に支配されている。道端に咲く花はどれも、ある大いなる不変の法則に従って芽生え、育ち、花開き、しおれる。地と天のあいだを舞う雪片も、ある大いなる変わることのない法則に従って形づくられ、降り、溶ける。

ある意味では、この広大な宇宙にあるのは法則だけである。これが真実なら、必然的に、そのすべての背後には、これらの法則をつくる力、つくられた法則を超える力があるはずだ。万物の背後にあるこの無限の生命と力の霊を、私は神と呼ぶ。あなたが「慈愛の光」「摂理」「大霊」「全能」その他、最も都合のよいどのような言葉を使おうと、私は気にしない。その大いなる中心的事実について合意できるなら、呼び名は問題ではない。

それゆえ神とは、宇宙全体をただご自身で満たすこの無限の霊である。すべては神から生じ、神の内にあり、神の外にあるものは何もない。まさに神の内で、私たちは生き、動き、存在している。神は私たちの生命の生命、私たち自身の生命そのものである。私たちは神から生命を受け取り、今も絶えず受け取っている。私たちは神の生命にあずかっている。私たちは個別化された霊であり、神は私たちを含め、ほかのすべてを包み込む無限の霊であるという点で神とは異なるが、本質において神の生命と人間の生命はまったく同じであり、一つである。両者は本質、すなわち質において異なるのではなく、度合いにおいて異なる。

私たちが神から、神的な流入という形で生命を受け取ると信じる、深く霊的に照らされた人々は、昔も今もいる。また、私たちの生命は神の生命と一つであり、したがって神と人間も一つであると信じる人々も、昔も今もいる。どちらが正しいのか。どちらも正しい。正しく理解すれば、どちらも正しいのである。

第一の考え方について言えば、神が万物の背後にある生命の無限の霊であり、万物がそこから生じるのなら、個別化された霊としての私たちの生命は、この神的な流入を通じて、無限の源から絶えず流れ来ていることは明らかである。第二の考え方について言えば、個別化された霊としての私たちの生命が、この無限の生命の霊から直接生じ、その一部であるなら、各人の生命に現れる無限の霊の度合いは、その源と質において同一でなければならない。海から取った一滴の水が、その性質や特徴において、源である海と同一であるのと同じである。それ以外にありえようか。ただし後者の考え方には、誤解を招きやすい点がある。神の生命と人間の生命は本質においてまったく同じでも、神の生命は個々の人間の生命をはるかに超え、ほかのすべてをも包み込む。言い換えれば、生命の質については本質的に同じだが、生命の度合いについては大きく異なる。

このように見れば、二つの考え方はどちらも真実だと分かるのではないだろうか。そればかりか、両者は同じ一つのことではないだろうか。二つの考え方は、同じ一つのたとえで示すことができる。

谷間に、山腹の尽きることのない貯水池から水を受ける貯水池があるとしよう。この場合、谷間の貯水池が、山腹のより大きな貯水池から水が流れ込むことで水を得ているのは事実である。同時に、この小さな貯水池の水が、性質、質、特徴において、源である大きな貯水池の水とまったく同じなのも事実である。ただし違いはこうだ。山腹の貯水池は、水の量において谷間の貯水池をはるかに上回るため、同じような貯水池を数えきれないほど満たしても、なお尽きることがない。

人間の生命についても同じである。ほかのことについてどのように意見が異なろうと、万物の背後に、すべての生命であり、すべてがそこから生じる、この無限の生命の霊があるという点では、すでに私たちは合意していると思う。だとすれば、個々の人間の生命、あなたと私の生命は、この無限の源から神的な流入によって来るに違いない。そしてそれが真実なら、この流入によって人間にもたらされる生命は、本質においてこの無限の生命の霊と同じである。違いはある。それは本質の違いではなく、度合いの違いである。

これが真実なら、人間はこの神的な流入に自らを開く度合いに応じて、神に近づくことになるのではないだろうか。そうであれば、近づく度合いに応じて、人間は神の力を身につけることになる。神の力に限界がないのなら、人間の限界とは、自分自身を知らないために自ら設けている限界だけだということにならないだろうか。

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