対話本文
ティマイオス この宇宙の生成は、必然と知性が組み合わさって生じました。知性は必然を支配し、説得によって、生成するものの大半を最善へ導きました。そのため必然は、知性による説得に屈し、このようにして初めに宇宙全体が組み立てられたのです。
ティマイオス(続) ですから、生成のありさまを本当に語ろうとするなら、さまよう原因、すなわち本性上さまようものとして運ばれる原因も、説明に加えなければなりません。そこで私たちは、もう一度話を戻し、これらの事柄にふさわしい別の出発点を定めて、改めて初めから始めなければなりません。先にあの事柄についてそうしたように、今度はこれらについてそうするのです。天が生成する以前の火、水、空気、土の本性と、それ以前にそれらが受けていた状態を観察しなければなりません。というのも、これまで誰も、それらがどのように生成したかを明らかにしていないからです。それなのに、火とは何か、それぞれのものとは何かを知っているかのように語り、それらを宇宙の原理、元素とみなしてきました。
ティマイオス(続) しかし、それらを、ほんの音節のようなものとしてたとえることさえ、少しでも思慮ある人にはふさわしくありません。では、私たちの説明は次のようにしておきましょう。万物について、原理が一つなのか複数なのか、あるいはどのようなものであるのかは、今は語りません。ほかでもなく、いまの説明の進め方では、私の考えを明らかにするのが難しいからです。ですから、あなた方も私が語るべきだとは思わないでください。私自身、これほど大きな仕事に取り組むのが正しいと、自分に言い聞かせることはできないでしょう。
ティマイオス(続) ただし、初めに述べた「もっともらしい説明」の力を守りながら、これまでより少しも劣らず、いや、むしろさらにもっともらしい仕方で、個々の事柄と万物全体について、初めからもう一度語ることを試みます。
ティマイオス(続) それでは、語りの始めに神を救い主として呼び求め、奇妙でなじみのない説明から、もっともらしさにかなう見解へ私たちを無事に導いてくださるよう願い、改めて語り始めましょう。
ティマイオス(続) 第二のものは、生成し、目に見える範型の似姿です。第三のものについては、それまで区別していませんでした。二つのものだけで十分だと思っていたからです。しかし今や、議論は、捉えにくく曖昧な形相を、言葉によって明らかにするよう迫っているようです。それにはどのような力と本性があると考えるべきでしょうか。とりわけ、あらゆる生成を受け入れるもの、いわばその養い手だと考えなければなりません。真実はすでに述べましたが、これについてもっと明瞭に語る必要があります。
ティマイオス(続) これは難しいことです。そもそも、そのためには火と、火に伴うものについて、前もって問いを立てておかなければならないからです。それぞれのものが実際にはどのようなものなのかを述べるのは難しく、水と呼ばれているもの一つひとつを水と呼ぶべきなのか、むしろ火と呼ぶべきなのか、あるいはどのような名を与えるべきなのかを、信頼でき確かな説明によって明らかにしなければなりません。では、それらについて私たちは、何を、どのように、どのようなことを、もっともらしく問いながら語れるでしょうか。まず、いま水と名づけたものは、私たちの見るところ、固まると石や土になります。
ティマイオス(続) それが溶けて分かれると、同じものが息や空気となります。空気が燃えると火になり、逆に火が再び集まり消えると、空気の姿へ戻ります。また空気が寄り集まって濃くなると雲や霧になり、それらがさらに押し固められると流れる水になります。水からは再び土や石が生じます。このように、生成は循環し、見たところ、互いに移り変わっています。
ティマイオス(続) こうしたものは、それぞれが同じ姿のままで現れることが決してありません。だから、そのどれかを取り上げて「これはこれであって、別のものではない」と変わらぬものとして言い張るなら、恥ずべきことではないでしょうか。そうではありません。これらについては、はるかに確かな言い方があります。いつも見ているものが、そのつど別の姿になっているなら、「これは火だ」と言わず、そのたびに「火のようなもの」と呼ぶのです。「これは水だ」とも言わず、いつも「水のようなもの」と言うのです。ほかのものについても、何か確かな存在を持つものとして断言してはなりません。
ティマイオス(続) 私たちは「これ」や「このもの」という言葉を使って何かを示そうとしますが、そうしたものは「これ」「このもの」「このようなもの」という表現や、それらを固定した存在として示すすべての言い方を受けつけず、そこから逃れていきます。ですから、個々のものをそのように呼ばず、いつも巡りながら、それぞれにも全体にも似ている「そのようなもの」と呼ぶべきです。火も、つねにそのようなものです。生成を持つものは、すべてそうなのです。
ティマイオス(続) それらのものがいつもその中に現れ、またそこから消えていく、その場だけを、「これ」や「このもの」という名で呼ぶべきです。一方、熱いものや白いもの、その他どのような反対の性質を持つものでも、またそれらから生じるものすべてについても、そのどれも、その場そのものと呼んではなりません。これについて、もう一度、さらに明瞭に語るよう努めましょう。たとえば、誰かが金からあらゆる形を作り、いったん作ったものを別の形へと絶えず作り変えているとします。
ティマイオス(続) そのうちの一つを指して「これは何か」と尋ねるなら、真実に照らして最も確かな答えは、「金だ」と言うことでしょう。そこに作られていた三角形やその他の形については、形そのものとして実在するかのように言ってはなりません。それらは、形を与えられているあいだにも変化してしまうからです。せいぜい「そのようなもの」と呼ぶことを、確かな言い方として受け入れるなら、それで満足すべきです。あらゆる物体を受け入れる本性についても、同じことが言えます。これには、いつも同じ名を与えなければなりません。なぜなら、それは自らの本性を少しも離れず、つねにすべてを受け入れながら、入って来るもののどれにも似た形を、どこでも決して受け取ったことがないからです。
ティマイオス(続) それは本性上、すべてのものの型としてそこにあり、入って来るものによって動かされ、さまざまに形を変えます。そして、それらのために、そのつど別の姿に見えるのです。そこへ入って来て、そこから出ていくものは、つねに存在するものの似姿です。それらは、言葉では言い表しがたく驚くべき仕方で、もとのものから刻みつけられています。そのことは後で改めて扱います。いまは、三つの種類があると考えなければなりません。生成するもの、生成がその中で起こるもの、そして、生成するものがそこから似せられて生まれるものです。
ティマイオス(続) 受け入れるものは母に、そこから似せられて生じるものは父に、そしてその間にある本性は子にたとえるのがふさわしいでしょう。あらゆる種類の印象を帯びたさまざまな模様を見ようとするなら、それが刻みつけられるものは、うまく整えられていなければなりません。ただし、そこへどこからか受け入れることになるすべての形相については、形を持たないままでなければなりません。受け入れるものが、そこへ入って来るもののどれかに似ていると、そのものとは反対の形や、まったく別の本性の形を受け取ったとき、それらをうまく似せられず、自分自身の姿をそこに現してしまうからです。
ティマイオス(続) それゆえ、すべての種類をその中に受け入れるものは、あらゆる形相から離れていなければなりません。香りのある軟膏を工夫して作る人々が、まず香りを受け入れる液体をできるかぎり無臭にするのと同じです。また、柔らかい素材に形を刻みつけようとする人々は、そこに元の形がまったく残らないようにし、前もってできるかぎり滑らかに整えるのです。
ティマイオス(続) 同じことは、つねに存在するすべてのものの似姿を、自分の全体に幾度もよく受け入れようとするものにも当てはまります。それは本性上、あらゆる形相を持たないでいなければなりません。ですから、生成したもの、目に見え、まったく感覚で捉えられるものの母であり受け入れ手を、土とも、空気とも、火とも、水とも呼ばないことにしましょう。また、それらから生じたものとも、それらがそこから生じたものとも呼びません。むしろ、目に見えず、形を持たず、すべてを受け入れる何らかのものと言うなら、また知性で捉えられるものをきわめて捉えがたい仕方で分け持つ、と言うなら、それは言い過ぎではありません。
ティマイオス(続) 先に述べたことから、その本性にできるかぎり近づいて言うなら、次のように述べるのが最も適切でしょう。そのうち燃えた部分は、そのつど火として現れ、潤った部分は水として現れます。また、土や空気として現れるのは、それらの似姿を受け入れるかぎりにおいてです。こうしたことを、さらに議論によって明確にしながら考察しなければなりません。そもそも、火そのものがそれ自体として存在するのでしょうか。そして、私たちがいつもこのように語るすべてのものは、それぞれがそれ自体で存在するのでしょうか。
ティマイオス(続) それとも、私たちが見ているものや、身体を通して感覚するその他のものだけが、このような真実性を持ち、それらのほかには、どこにも何一つ存在しないのでしょうか。そうだとすれば、それぞれに知性で捉えられる形相があると言うのは、いつもむなしいことだったのでしょうか。それは実のところ、単なる言葉にすぎなかったのでしょうか。だからといって、いまの問題を判断せず、裁定しないまま残して、これこそ確かだと強く言い張るのも適切ではありません。また、長い議論に、ついでの長話を付け加えるべきでもありません。
ティマイオス(続) もし大きな問題に対する定義を短く示せるなら、それが何よりもふさわしいでしょう。そこで私は、次のように自分の判断を定めます。知性と真なる思わくが二つの種類だとするなら、それらは完全にそれ自体で存在し、私たちの感覚には捉えられず、思考によってのみ把握される形相です。ところが、ある人々が考えるように、真なる思わくが知性と少しも異ならないのだとすれば、私たちが身体を通して感覚するすべてのものを、最も確かなものとして置かなければなりません。
ティマイオス(続) この二つは別々に生じ、あり方も異なるのですから、二つの種類として述べなければなりません。真なる思わくは説得によって私たちの内に生じますが、知性は教えによって生じます。真なる思わくは言論を伴わない一方、知性はいつも真実の言論を伴います。前者は説得によって変わりますが、知性は説得によって動かされません。すべての人が真なる思わくを分かち持つと言うべきですが、知性を持つのは神々と、人間のうちのごくわずかな一群です。
ティマイオス(続) これらのことがそのようであるなら、ひとつはいつも同じ形を持ち、生成せず、滅びず、外から来た別のものを自らに受け入れず、自らもほかのどこかへ行かず、目に見えず、ほかの仕方でも感覚されないものであり、思考が観察する役目を担うのはこのものです。これと同じ名を持ち、それに似た第二のものは、感覚され、生成し、絶えず動き回り、何らかの場所で生じては、そこから再び消えていき、感覚を伴う思わくによって捉えられます。第三の種類は、つねにある「場」です。滅びを受け入れず、生成するすべてのものに場所を与えます。
ティマイオス(続) それ自体は感覚されず、いわば正統でない推論によって捉えられますが、信頼しにくいものです。これを見ながら、私たちは夢を見ているかのように、存在するものはすべてどこかにあり、何らかの場所を占めることが必然だと言います。そして、地上にも空のどこにもないものは何一つ存在しない、と言うのです。このようなものすべてと、その近縁にあるもの、また眠ることなく真に存在する本性についても、私たちはこの夢見のため、目覚めて真実を区別して語ることができません。
ティマイオス(続) 似姿は、それが生じた場そのものではなく、いつも別の何かの像を運んでいます。だから、別の何かの中に生じ、何らかの仕方で存在に触れていなければならないか、そうでなければ、まったく何ものでもないはずです。これに対して、真実を精密に語る言論は、真に存在するものを助けます。あるものが一方であり、別のものが他方であるかぎり、どちらかが他方の中に生じることで、同時に同じ一つのものでもあり、二つのものでもある、ということには決してならないからです。
ティマイオス(続) そこで、私自身の判断に基づき、簡潔に考察したこの説明を、ひとまず次のように示しておきましょう。存在するもの、場、生成という三つは、それぞれ別個のものとして、天が生成する前からありました。