アドヴァイタでは、属性によって限定されないニルグナ・ブラフマンと、属性を伴い、世界の主、祈りや帰依の相手として語られるイーシュヴァラを区別します。この区別を、そのまま他宗教の教義だとは考えず、比較のための二つの位置として使うのです。
属性・姿・人格によって捉えきれない究極の極
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名前・性質・意志・働きを持ち、人間と関係する極
ここでいう「グナ」は、サーンキヤの三グナだけを意味しません。名前、性質、意志、働きなど、ある存在を「このようなもの」と語れる属性を広く指します。また「イーシュヴァラ相当」とは、各宗教に創造主イーシュヴァラが実在するという意味ではありません。祈り、帰依、救済、導きなどにおいて人間と関係する側を、比較のために置いたものです。
| 伝統 | 属性を超える極――ニルグナとの比較 | 属性を持ち関係する極――イーシュヴァラとの比較 | 対応しない点 |
|---|---|---|---|
| アドヴァイタ | ニルグナ・ブラフマン | イーシュヴァラ/バガヴァーン | この区別自体が基準モデル |
| キリスト教 | ニルグナ概念としては明示されない。否定神学では、神の本質は人間の概念や肯定的表現を超える | 愛し、意志し、創造し、救う三位一体の神 | 二つの神や、人格神より上位の無人格的実在を置くわけではない |
| イスラム教 | ニルグナ概念としては明示されない。神の本質、絶対的超越、被造物との非類似を強調する方向がある | 神の名と属性を通して、創造者、慈悲深き方、審判者として語られるアッラー | 超越する神と名を持つ神は同じアッラーであり、神学諸派で属性の理解も異なる |
| カバラ | 属性や限定を超える無限としてのエン・ソフ | セフィロトを通した神の顕現と働き | 図形的には近いが、セフィロトをマーヤーや名と形へ置き換えることはできない |
| 初期仏教・上座部 | ニルグナ概念としては適用困難。涅槃は無為・無条件とされるため限定的に比較できるが、純粋意識や永遠の自己とはされない | ブッダやデーヴァは尊敬・帰依の対象になり得るが、創造主イーシュヴァラではない | イーシュヴァラに相当する宇宙の主を立てず、ニルグナという存在論も置かない |
| 大乗仏教 | ニルグナ概念としては適用困難。空、真如、法身などを限定を超える極として比較できる場合がある | 諸仏・菩薩は、教え、救済、帰依の関係における具体的な姿を持つ | 空を一つの実体やブラフマンにせず、諸仏も創造神とは限らない |
この表で重要なのは、右側に何かを置けたからといって、それが存在論的にイーシュヴァラと同じになるわけではないことです。たとえば阿弥陀仏は救済と帰依の相手という機能では人格神に似て見えますが、世界を無から創造する唯一神ではありません。反対に、左側に「無限」「無」「空」「不可知」を置けても、それがニルグナ・ブラフマンと同じ純粋意識であるとは限りません。
キリスト教やイスラム教では、創造者と被造物の差異は、単なる無明による見かけではありません。神との愛、契約、恩寵、服従、救済は、その差異があるから成立します。人格的に語られる神の背後へ、別の無人格的絶対者を置くなら、それはアドヴァイタ側から行った再配置であって、その宗教自身の教義ではありません。
カバラのエン・ソフとセフィロトは、この二層モデルにもっとも近い図を描きます。エン・ソフは属性や限定を超える無限として語られ、セフィロトは神の属性、領域、自己顕現の段階などとして説明されます。それでも、創造、戒律、祈り、修復を含む体系を、ブラフマンと名と形の関係へそのまま置き換えることはできません。
仏教との違いはさらに大きいものです。仏教の無我と空は、身体や心の奥に永遠のアートマンを見つける教えではありません。シャンカラは仏教諸学派を批判し、自己明証的な純粋意識とブラフマンを立てました。したがって、「仏教の空は本当はブラフマンであり、諸仏はイーシュヴァラである」と言えば、仏教側の重要な否定を消してしまいます。
それでもこの二層モデルには意味があります。宗教的な言葉が、概念を超える究極について語っているのか、人間と関係する具体的な姿について語っているのかを分けられるからです。グナがあるかないかを明示しない伝統については、「ニルグナに相当する」と断定せず、不明、適用困難、機能的にのみ比較可能と記すこともできます。
このため、アドヴァイタはすべての宗教を内側から説明する理論ではありません。アドヴァイタの立場から、他宗教の二つの側面がどこに見えるかを試す比較言語です。他宗教は、その配置に収まらない反論を持ちます。