ここまで読んだ人には、もっともな疑問が残るでしょう。
違いがあることは分かった。それで、結局どれが正しいのか。
「自分で考えてください」と返すこともできます。宗教の真偽を外から簡単に決めるべきではない、という慎重さも必要です。しかし、それだけでは長い比較を続けてきた意味が薄くなります。本稿にも、暫定的であっても一つの答えが必要です。
そこで最後に、シャンカラのアドヴァイタ・ヴェーダーンタを使い、ここまでに登場した神、魂、宗教、神秘体験、現代スピリチュアルをつなぎ直してみます。
これは、「すべての宗教は本当はアドヴァイタである」と証明する試みではありません。キリスト教、イスラム教、仏教、金光教、大本などを、その宗教自身の理解に反してアドヴァイタの一部へ変えることもできません。ここで行うのは、筆者がどの見方をもっとも一貫した基準として採用するかを示し、その基準がどこまで働き、どこで止まるかを確かめる試みです。
シャンカラの説明を使ううえで、もっとも重要なのは、世界を二つに切断することではありません。同じ現実について、日常的・宗教的な経験の立場と、究極的な立場を区別することです。
普通の言葉で先に示すと、次のようになります。
| 見る立場 | そこで成り立つもの | そこで必要なこと |
|---|---|---|
| 私たちが暮らす経験世界 | 私と他人、神と人、善悪、行為と結果、祈り、宗教、社会 | 判断、倫理、責任、対話、修行 |
| 存在を最後まで突き詰めた究極の立場 | 独立した多数の存在ではなく、二つとないブラフマン | 自己の本性についての無明が解かれること |
アドヴァイタでは、前者を vyāvahārika(ヴィヤーヴァハーリカ、経験的・実践的な現実)、後者を pāramārthika(パーラマールティカ、究極的な現実)と呼びます。これは二つの宇宙が並んで存在するという意味ではありません。経験世界はブラフマンに依存しているが、ブラフマンは経験世界の特定の形に依存しない、という非対称な関係です。
土で作られた壺を考えてみましょう。壺は水を入れる道具として現実に働きます。壺を落とせば割れます。その意味で「壺など存在しない」と言うのは間違いです。しかし、壺の形が壊れても、材料である土まで無になるわけではありません。壺は土に依存しますが、土はその一つの壺の形に依存しません。
シャンカラにとって、世界の「名と形」とブラフマンの関係も、これに似ています。人、神、宗教、魂、身体、社会は、経験世界では区別され、異なる働きを持ちます。しかし、それらは究極的に独立した第二の実在ではありません。
この二つの見方を持つと、これまでの議論をかなり整理できます。