黒住教、金光教、大本を短期間に続けて見たとき、最初の疑問は「それぞれ神をどう考えているのか」でした。
しかし比較を進めると、問いは「人間とは何か」へ移りました。
- 黒住教では、人間は神の分心をいただく。
- 金光教では、人間は神の子・氏子として、神とあいよかけよに立ち行く。
- 大本では、人間は神人合一して天地経綸を担う。
三教とも、神と人間を完全に断絶させるわけではありません。それでも、内在、相互関係、合一と使命という構造は違います。
ヴェーダーンタを横に置くと、違いはさらに立体的になります。
- シャンカラは、真我とブラフマンが本来二つでなかったと説きます。
- ラーマーヌジャは、一なる神の中に実在する世界と魂を置きます。
- マドヴァは、神と魂の差異を永遠に保持します。
さらに神智学を見ると、自己は転生し進化する個体へ再構成されます。オーバーソウル、モナド、ハイヤーセルフ、グループソウルを追うと、似た言葉が異なる系譜から合流していることが分かります。ニューソートとニューエイジを分けると、「思考が現実を作る」はアドヴァイタから直線的に生まれたわけではないことも見えてきます。
こうして最初の問いへ戻ると、「人は神か」という質問そのものが粗すぎたことが分かります。
なぜなら「神」の側も、一種類ではなかったからです。創造神、最高人格神、究極実在、神格、天界的存在、神の化身、内在する神性を分けなければなりません。インドのデーヴァター比較が示したのは、神々の一員であることや力を持つことさえ、自己知、解脱、倫理的完全性を自動的には保証しないということでした。
第VIII部の小結――式の左右に何が入っているのか
「人=神」という等式だけでは、その思想についてほとんど何も分かりません。
本稿がまず二つの基準座標を置いたのは、そのためです。第一に「神/究極者とは何か」。第二に「私/自己とは何か」。式の左右を確かめた後で、両者の関係、個人性と到達点、願望、体験と解釈、権威と組織権力を順に加えました。これらを最初から一枚の表へ押し込めると、似た言葉の背後にある違いが再び見えなくなります。
左辺の「人」は、人格的自我なのか、ジーヴァなのか、アートマンなのか、分心をいただく神の子なのか、転生するモナドなのか、ハイヤーセルフなのか、グループソウルに属する個別魂なのか。
右辺の「神」は、世界を創造する唯一神なのか、ブラフマンという究極的実在なのか、ナーラーヤナのような最高人格神なのか、輪廻宇宙内のデーヴァターなのか、カバラのエン・ソフなのか、天照大御神なのか、天地金乃神なのか、万物普遍の霊なのか、オーバーソウルなのか、宇宙意識や Source なのか。
さらに、等号「=」も一つではありません。
- 神性が内在する。
- 神と人が相互に関係する。
- 神と人が合一する。
- 人と世界が神に包含される。
- 真我と究極的実在が非二元である。
- 神と魂は永遠に異なる。
これらを同じ「一つ」で済ませることはできません。
そして哲学的な等式を理解した後には、その思想が実際に何をするかを見なければなりません。
- 他者にも同じ神性を見るのか。
- 自分の願望を神意と同一視するのか。
- 指導者自身も教義に拘束されるのか。
- 批判と離脱が可能なのか。
- 神秘体験から権力を導いていないか。
- 集団内の一時的な同調・融合感を、根源的ワンネスの証明にしていないか。
- 自己超越が主体性の放棄へ変わっていないか。
一元論だから安全なのでも、二元論だから危険なのでもありません。「万人が神」は平等思想にも霊的階級思想にもなり得ます。「エゴを捨てよ」は慈悲と謙虚さにも、教祖への服従にも使われ得ます。
最後まで保持すべき区別は、次の四つです。
- 神性と、人格的自我の神格化は同じではありません。
- 自己超越と、主体性の放棄は同じではありません。
- 構造的類似と、歴史的影響は同じではありません。
- 神格・霊的能力と、自己知・解脱・倫理的完全性は同じではありません。
問題は、ただ「人は神か」と問うことではありません。私たちがそこで「人」と呼んでいるものと、「神」と呼んでいるものが何なのか。そして、その理解が欲望、他者、判断、責任、権力をどのように配置するのかを問うことです。
神性を見いだすことと、自分を神にすること。その二つの間には、似た言葉からは見えない大きな距離があります。