仏教各派を「究極と自己」で分類する
仏教には創造神―被造物の軸をそのまま当てられません。そこで問いを、「究極的真理と経験的自己はどのような関係にあるか」へ翻訳します。
初期仏教・上座部――無我と涅槃
初期仏教・上座部では、身体、感覚、表象、形成作用、識別という五蘊を、永遠で支配可能な自己として掴むことが退けられます。問題は、隠れた真の魂を発見することより、無常・苦・無我を洞察して執着を終えることにあります。
したがって「人は神か」への答えは、単純な否定よりも「その問いが想定する永続的な人・魂をまず吟味する」となります。涅槃は唯一神との合一でも、すべての魂の融合でもありません。
中観――空は一つの実体ではない
中観は、すべてのものが固有の自性を持たず、縁起して成立すると論じます。空は、事物の背後に隠れた唯一の基体ではありません。空そのものを独立実体にすれば、それもまた空です。
中観ではまた、日常の約束や言葉の中で成り立つ真理と、ものごとを突き詰めた究極的な真理を区別します。前者を世俗諦、後者を勝義諦と呼び、合わせて「二諦」といいます。二つの別世界を立てるのではなく、同じ現実を異なる水準から捉える区別です。
「すべては一つの宇宙意識である」
単一実体を立てる
「すべては空である」
各存在の独立自存性を否定する
両者は表面的には非二元に見えても、哲学的な方向が違います。前者は一なる実体へ多を還元することがあります。後者は一と多の双方への実体視を解体します。
唯識――「心のみ」は私の願望創造ではない
Yogācāra(唯識)は、経験される対象と認識の構造を精密に分析し、主客二分の変容を目指します。「唯心」「唯識」という言葉だけを取ると、「私の思考が現実を作る」という引き寄せ思想に見えます。
しかし、ここで変容されるべき「私の心」は、願望を宇宙へ命令する主人ではありません。唯識では、経験の痕跡を蓄える深層の心を阿頼耶識、その中に残る経験や行為の潜在的な力を種子と呼びます。見る側と見られる側を固定した二つとしてつかむ働きを二取といい、こうした認識の土台そのものが智慧へ転換することを転依といいます。人格的思考の万能論とは方向が逆です。
如来蔵・仏性――本来性は隠れたエゴではない
如来蔵・仏性思想は、衆生が成仏可能性を持つこと、本来清浄な側面を語ります。肯定的な自己言語を用いる経典もあり、アートマンとの関係は古くから論争的です。
比較上は、「日常的な人格の奥に、より本来的な可能性がある」という心理的機能が、ハイヤーセルフと似て見えます。しかし仏性は、成功や願望実現を保証する高性能な人格ではありません。貪り、怒り、無知を超え、智慧と慈悲を実現する可能性です。
禅――悟りは「私が特別になった」ことか
禅では、坐って瞑想する坐禅、自分の本性を見抜く見性、修行と悟りを切り離さない修証、作られた自己像より前の本来のあり方を指す「本来の面目」などが語られます。ところが「私は悟った」という自己像が強化されれば、悟りが新しい身分証になります。
禅的な自己忘却と、教祖的な「私は完全覚醒者だ」は同じではありません。体験を語る権利と、他者の身体・金銭・人生を支配する権利も別です。この点は後のカルト論で再び扱います。
浄土教・浄土真宗――迷いや煩悩を抱える「凡夫」と他力
浄土教では、阿弥陀仏の本願と衆生の関係が中心になります。迷いや煩悩を抱えた普通の人間を「凡夫」と呼びます。特に浄土真宗では、自力で完全性を獲得する主体への深い反省と、他力への信頼が前景化します。
これは「神は神、人は人」に似て見えますが、創造者と被造物の関係ではありません。また「自分を捨てて教祖に従う」こととも同じではありません。他力は阿弥陀仏の本願に関する宗教的教義であり、人間指導者への無条件服従へ直接置換できません。
天台・日蓮――一念と世界の相即
法華経は、すべての人を成仏へ導く一つの仏道を説く大乗仏教の重要経典です。
天台では、迷いから仏の境地まで十のあり方が互いを内に含むことを「十界互具」と呼びます。また、すべてを成仏へ導く一つの乗り物、すなわち一つの仏道を「一乗」と呼びます。
天台では、あらゆる存在が互いを妨げず、切り離せない関係にあることを「相即」と表します。一念三千は、一つの心の働きのうちに世界全体の多様なあり方が具わるという、この相即的世界観を示します。日蓮系伝統は法華経と一念三千に加え、経題を唱える「題目」、仏の教えが正しく行われにくくなる時代を表す「末法」をめぐる救済論を独自に展開します。
「一念に世界がある」を「私の一念が好きな現実を何でも作る」と翻訳してはいけません。前者は諸法の相即、十界互具、仏道実践の体系に属します。後者は人格的願望を因果的創造力として扱います。
真言密教と密教的な仏道「金剛乗」――仏と響き合う「相応」
金剛乗とは、真言、印、観想、儀礼などを通じて仏の智慧を実現しようとする密教的な仏道を指します。
真言密教では、身体、言葉、心という三つの働きを「三密」と呼びます。行者の身体・言葉・心が仏の身体・言葉・心と響き合い、仏の力に支えられることが三密加持です。そして、この身体を持ったまま仏の智慧を実現することを即身成仏と呼びます。大日如来や法身とともに、これらが重要な教えとなります。
これは「人間の身体と人格が、そのまま好き勝手をする神になる」という意味ではありません。入門と伝授の儀礼である灌頂、守るべき戒、儀礼、師から弟子へ教えを伝える師資相承、仏の世界を図で表す曼荼羅、心に像を描いて深く見る観想という実践体系の中にあります。また、師との宗教的関係を、師のあらゆる世俗的判断の無謬性へ拡張しないことも重要です。
仏教諸派の比較
| 伝統 | 究極・中心 | 自己の扱い | ワンネスの型 | 「自分は神」への距離 |
|---|---|---|---|---|
| 初期仏教・上座部 | 涅槃、法、縁起 | 五蘊の無我 | 実体的一者を中心にしない | 永続的自己と神の等式を立てない |
| 中観 | 空・二諦・縁起 | 自性ある自己を否定 | 空・非独立性 | 宇宙意識一元論ではない |
| 唯識 | 識の構造と転依 | 人や物に固定した本体があるという執着を変容 | 主客非二元 | 私的思考の現実創造ではない |
| 如来蔵・仏性 | 成仏可能性・本来清浄性 | 仏性を人格的エゴと分ける | 本来性・相即 | 神的エゴより智慧と慈悲の実現 |
| 禅 | 修証・見性・仏性 | 自己忘却・本来の面目 | 主客非二元 | 「私は特別な覚醒者」への反省が必要 |
| 浄土真宗 | 阿弥陀仏の本願 | 煩悩を抱えた凡夫 | 他力・関係・信仰を共にする仲間 | 自己万能論と対照的 |
| 天台・日蓮系 | 法華経、一念三千 | 十界互具・成仏 | 相即・すべてを成仏へ導く一つの教え | 一念=願望創造ではない |
| 真言密教 | 大日如来、法身、三密 | 即身成仏 | 加持・相応・法界 | 儀礼的実現をエゴ万能化と分ける |