世界宗教を分類するための九つの問い
ここでいう「契約」は神と人間・共同体を結ぶ約束と関係を、「無我」は固定し支配できる永遠の自己を立てないという仏教の見方を指します。そのほかの専門語は、ここまでに説明した意味で用います。
また「渇愛」は、対象をむさぼり求め、存在や非存在へ執着する欲求を意味します。
| 分類領域 | 確認する中心質問 | 混同を防ぐもの |
|---|---|---|
| 究極者 | 創造神、人格神、絶対者、空、法身のどれか | すべてを同じ「神」と呼ぶこと |
| 人間・自己 | 被造的人格、ジーヴァ、アートマン、プルシャ、五蘊のどれか | 人格的自我と真の自己の混同 |
| 中間存在 | 神々、天使、仏、菩薩、聖者をどう置くか | 能力と究極性の混同 |
| 純粋精神 | ニルグナ、純粋意識、否定神学、空のどれか | 似た否定表現の同一視 |
| ワンネス | 唯一性、参与、包含、非二元、相即のどれか | 「一つ」の一語化 |
| 救済 | 解脱、恩寵、覚醒、成長、現実創造のどれか | 到達点の混同 |
| 権威 | 聖典、伝統、共同体、師、内面のどこか | 神意と人間解釈の混同 |
ここまでの議論から、「人は神か」を次の九問へ分解できます。
- 究極的存在は、創造神、最高人格神、絶対者、純粋意識、空、法身のどれか。
- 人間は、被造された人格、ジーヴァ、アートマン、プルシャ、五蘊の仮和合のどれか。
- 神々・天使・仏・菩薩・聖者は、究極者とどのように区別されるか。
- 人間と究極者の関係は、創造、契約、参与、内住、包含、合一、非二元、無我のどれか。
- 個人性は救済・解脱後も残るか。
- ニルグナ、純粋精神、否定神学、無相に相当する概念があるか。
- ワンネスがあるなら、唯一神、非二元、包含、参与、空・相即、共同体のどれか。
- 問題は罪、無明、渇愛、カルマ、神からの隔たり、未発達のどれか。
- 救済は、赦し、帰依、恩寵、自己知、識別、覚醒、成仏、多数の転生を通じた魂の長期的成長のどれか。
この九問を使うと、キリスト教、イスラム教、仏教、インド諸派を同じ表へ置きつつ、同一視を避けられます。ここから、この問いを使って各宗教を順番に見ていきます。
キリスト教各派を「神と自己」で分類する
「キリスト教では人は神ではない」とだけ言えば、創造者と被造物の差異は捉えられます。しかし、神の像、聖霊の内住、キリストとの結合、神化、聖化といった語彙が抜け落ちます。逆に、「キリスト教にも神化がある」とだけ言えば、アドヴァイタと同じに見えてしまいます。
カトリック――恩寵による参与
カトリックの基本構造は、創造―被造の差異と、恩寵による参与の組み合わせです。人間は神の像として造られ、罪によって傷ついていますが、キリストが人間を罪とその結果から救う働き、すなわち贖いと、神からの恩寵によって神の生命へあずかります。
『カトリック教会のカテキズム』は、恩寵を神の生命への参与と説明します。これは非常に強い言葉です。しかし同時に、参与は神から無償に与えられる賜物であり、被造的人格が自力で創造神になることではありません。
| 軸 | カトリック |
|---|---|
| 神 | 三位一体の創造神 |
| 人間 | 神の像として造られた身体と魂の人格 |
| 問題 | 罪、神との交わりの破れ、死 |
| 関係 | 創造―被造+契約+恩寵への参与 |
| 個人性 | 残る |
| 完成 | 神との至福直観、愛と聖性の完成 |
| ニルグナ類似 | 神は被造的限定を超えるが、無属性ブラフマンではない |
| ワンネス | 参与・交わり・教会的一致 |
カトリック神秘家が「神との合一」を語っても、それは通常、二つの物質が溶けて同じになることではありません。愛と恩寵における結合であり、人格的関係を完成させるものです。
東方正教会――神化と本質・エネルギーの区別
東方正教会は、今回のテーマにとって特に重要です。theosis(神化)は、人間の救いを「神のようになること」「神の生命へ参与すること」と表すからです。
しかし正教会の神化は、神の本質を人間が所有することではありません。神の本質は被造物にとって把握不能であり、人間は神の非被造的な働き・エネルギーへ参与すると説明されます。
神の本質
被造物には共有・所有されない
神のエネルギー・働き
恩寵によって人間が参与する
人間
人格と人間性を保ちながら神化される
この区別は、「神性へ参与すること」と「神の本体になること」を分ける有力な比較例です。黒住教の分心、金光教の神の子、ヴィシシュタ・アドヴァイタの包含と並べることはできますが、歴史的・教義的に同じではありません。
プロテスタント――一つの教義ではない
プロテスタントを一枚岩として「信仰だけの宗教」と説明することもできません。神によって罪人が正しい者と認められることを「義認」と呼びます。諸教派は、この義認、キリストとの結合、聖化、聖霊の内住、教会共同体を異なる比重で語ります。
ルター派・改革派では、信仰による義認とキリストとの結合が重要です。人間は神になるのではなく、キリストの義を受け、キリストに結ばれて新しい生を生きます。改革派では神の主権と契約、聖化が強調されます。
メソジスト・ホーリネス系では、聖化、完全な愛、聖霊の働きが前景化します。ただし「完全」は、人間が全知全能の神になることではなく、愛における完成として理解されます。
ペンテコステ・カリスマ派では、聖霊の働きによる特別な能力を「賜物」と呼び、本人が学んでいない言語のような発声をする異言、癒やし、預言、力強い礼拝経験が重視される場合があります。ここでは「霊的能力と悟り・倫理の分離」が特に有効です。賜物を持つことが人格の完全性を保証するとは、キリスト教内部でも考えられていません。新約聖書のパウロ書簡自体が、霊的賜物と愛の優先順位を区別しています。
キリスト教系新宗教と、原初の教会を回復しようとする修復主義運動
「その他の新しいキリスト教系運動」を一つの箱に入れることはできません。自己理解も外部分類も異なります。既成教会によって失われた原初のキリスト教を回復しようとする立場は、研究上「修復主義」と呼ばれることがあります。ここでは人間の神性という軸に関わる代表例だけを見ます。
以下で用いる「昇栄」は、人間が神のような存在へ高められるという末日聖徒固有の完成像を指します。また世界平和統一家庭連合の「心情」は、神と人を親子の愛で結ぶ内的な情の関係を指します。
末日聖徒イエス・キリスト教会は、人間を天の両親の霊的な子とし、昇栄によって神のようになる可能性を説きます。個人性と家族関係を強く残すため、アドヴァイタ的な個我の非実体化ではありません。「神的親子関係+永遠の成長」というモデルです。
エホバの証人は、唯一神エホバと被造物の差異を強く保ちます。人間の神化より、神の主権、キリストの役割、神の王国への忠誠が中心となります。
クリスチャン・サイエンスは、神を無限の Mind、Spirit として語り、真の人間をその像・表現として理解します。この点は「純粋精神」や観念論との比較に向きますが、日常的自我が神の全能を所有するという意味には直結しません。
世界平和統一家庭連合は、神を天の親として捉え、人間を神の子、世界を一つの家族として回復する物語を持ちます。ここでのワンネスは、神的親子、心情的一体、家庭と人類共同体の回復であり、梵我非二元ではありません。
この四例は教義も歴史も組織も異なります。本稿で同じ段落に置くのは、同じ「新宗教」だから同質だという意味ではありません。キリスト教語彙を用いながら、神、人間、完成の関係をどのように再構成したかを見るためです。
イスラム教各潮流を「神と自己」で分類する
スンナ派とシーア派の共通基盤
スンナ派とシーア派には、預言者後の正統な指導権、法学、神学、宗教権威をめぐる大きな違いがあります。しかし、タウヒード、クルアーン、ムハンマドを最後の預言者とする信仰、創造者と被造物の差異は共通の基盤です。
シーア派では、預言者ムハンマドの後に共同体を導く特別な指導者をイマームと呼び、霊的・解釈的権威を認めます。しかし、イマームがアッラーそのものになるわけではありません。預言者、イマーム、聖者の高い地位と、唯一神の神性を分ける必要があります。
これはデーヴァター比較と別の形で同じ注意を要求します。高い宗教的地位を持つ媒介者と、究極者そのものを区別するのです。
スーフィズム――ファナーとバカー
スーフィズムは一宗派ではなく、イスラム神秘主義の多様な実践・思想・教団を含みます。fanāʾ は自己中心的な自我や自己意志が消えること、baqāʾ は神によって存続することを表します。
「自己が消える」という表現はアドヴァイタに似て見えます。しかしイスラム的文脈では、神への愛、想起、服従、預言者への倣いが重要です。自己が神そのものだと存在論的に宣言することと、自己中心性が消えて神意に生きることは別です。
イブン・アラビーをめぐる「存在一性」の議論も、単純な汎神論へ縮められません。神の顕現、神名、存在、被造物の関係をめぐる精緻な体系であり、「私のエゴがアッラーだ」という話ではありません。
| 軸 | 主流イスラム | スーフィズムの一部 |
|---|---|---|
| 神 | 唯一の創造者アッラー | 同じタウヒードを前提に神秘的近さを探究 |
| 人間 | 被造物、神の僕 | 神を愛し想起する被造的主体 |
| ワンネス | 神の唯一性、ウンマの共同体的一致 | ファナー、バカー、神秘的一体の語彙 |
| 個人性 | 神との存在上の差異を保持 | 自我の消滅を語っても解釈は多様 |
| 危険な誤訳 | 「神は一つ」=「私と神は同一」 | fanāʾ=人格消滅・教祖服従と短絡すること |