イスラム教――神の唯一性は神人ワンネスではない
イスラム教で tawḥīd(タウヒード)とは、神が唯一であり、ほかの何ものも神性を共有しないという信仰です。信者の共同体は umma(ウンマ)と呼ばれますが、共同体が一つになることは、人間が神になることではありません。イスラム神秘主義の多様な潮流はスーフィズムと呼ばれ、そこでは自己中心的な意志が消える fanāʾ(ファナー)と、神によって生きる baqāʾ(バカー)が語られます。以下の表は、この三種類の「一つ」を比較します。
| 概念 | 何が「一つ」なのか | 神と人の差異 | 自己の扱い |
|---|---|---|---|
| タウヒード | 神が唯一である | 創造者と被造物の差異を保つ | 人は神へ従い、近づく |
| ウンマの一致 | 信仰共同体が礼拝と目的で結ばれる | 神人同一ではない | 個人は共同体の一員として残る |
| スーフィズムの fanāʾ | 自己中心的意志の消滅として語られる | 解釈は多様だが単純な人格的同一ではない | 神への依存と近さを深める |
| アドヴァイタ的非二元 | 真我と究極実在が二つでない | 比較対象であり、タウヒードそのものではない | 個我の究極性を問い直す |
タウヒードは、神が唯一であることを中心に置きます。しかし「神は一つ」と「人間と神は一つ」は全く違います。
クルアーン第112章は、神が唯一であり、誰かを生まず、誰からも生まれず、何ものも神に比べられないと語ります。人間は神の被造物であり、神の僕です。神の慈悲に包まれ、神に近づき、神意へ従うことはあっても、人間の人格的自我がアッラーになるわけではありません。
スーフィズムには fanāʾ(自己の消滅)や baqāʾ(神による存続)、存在の一性をめぐる語彙があります。しかしこれも多様であり、単純に「イスラム版アドヴァイタ」とはできません。自己中心的意志が消え、神への徹底した依存と近さが実現することと、被造物が創造者の本質になることを区別する解釈があります。
したがって、一神教にもワンネス概念はあります。ただし多くの場合、それは唯一神型、関係型、共同体型、参与型のワンネスであり、真我と絶対者の究極的同一ではありません。
カバラのエン・ソフ――無限の神と、知られる神
ユダヤ教の神秘思想であるカバラでは、有限な言葉で捉え切れない神の無限性を Ein Sof(エン・ソフ)と呼び、神が世界へ関わり知られる諸側面を十の sefirot(セフィロト)によって語ります。先にこの二語を押さえてから、表を見てみましょう。
| 比較軸 | エン・ソフ | セフィロト | ニルグナ・ブラフマンとの比較 |
|---|---|---|---|
| 基本的位置 | 無限で隠れた、直接把握しにくい神 | 神が世界へ関わり知られる諸側面 | 限定を超える究極という機能的類似 |
| 属性・形 | 有限な属性へ閉じ込められない | 属性・力・顕現として象徴化される | インド思想で自然を構成する三性質をいう三グナ論や、アートマン論は共有しない |
| 世界との関係 | 流出・顕現の根源として語られる | 有限世界への媒介 | アドヴァイタの非二元と同一ではない |
| 人間との関係 | 戒律・祈り・修復の文脈にある | 人間の宗教実践と結びつく | 「人格的自我=エン・ソフ」とはしない |
ユダヤ教神秘主義のカバラで重要な Ein Sof(エン・ソフ)は、「終わりのないもの」「無限」を意味し、神の隠れた、直接には把握できない側面を指します。神が有限世界へ関わり、知られる諸側面は、十の sefirot(セフィロト)を通じて説明されます。
Ein Sof
無限・隠れた神
↓ 流出・顕現
sefirot
神が世界へ関わり、知られる諸側面
↓
有限世界・人間・戒律・祈り
この図形は、ニルグナ・ブラフマンとサグナ・ブラフマンを連想させます。どちらも、限定を超える究極と、名前・属性・世界との関係を区別するからです。
しかし、エン・ソフはブラフマンではありません。
- 三グナ論を前提にしない。
- アートマン=エン・ソフという式を中心教義にしない。
- ユダヤ教の唯一神、創造、戒律、イスラエル、祈りの文脈にあります。
- セフィロトとの関係もカバラ内部で一様ではありません。
筆者は以前の記事で、エン・ソフを「混沌」、ブラフマンを「秩序」と比較し、エン・ソフをカーラナ、ワンネス以前の深淵へ対応させる仮説を提示しました。ただし、これはカバラの標準教義ではなく、筆者自身の修行体験を整理するための比較仮説です。本稿では、文献から確認できる比較と、この個人的な仮説を分けて扱います。
本稿では、エン・ソフとニルグナ・ブラフマンの機能的類似は採用します。一方、「エン・ソフ=カーラナ=ワンネス以前の恐怖」は筆者の比較神秘主義的仮説として残し、カバラの標準教義にはしません。また、エン・ソフを単なる無秩序と呼ぶより、秩序と無秩序の区別以前の無限とした方が、外部資料との整合性が高いと考えられます。