ここまでの比較で、「人は神か」という問いは、式の左右を定めなければ答えられないことが見えてきました。最後に、この二軸をヴェーダーンタ、日本の三教、神智学、現代スピリチュアルだけでなく、キリスト教、イスラム教、仏教、カバラ、インド諸派へ広げてみます。
これは本編から切り離された資料集ではありません。本稿で作ってきた見方が、異なる宗教のあいだでも違いを消さずに使えるかを確かめる最終段階です。世界宗教を一つにまとめるのではなく、共通する問いと異なる答えを見たうえで、最後にもう一度「神性とエゴ」という出発点へ戻ります。
インドの「神」をもう一度分解する
第II部で、ブラフマンは存在の根本、イーシュヴァラは世界を治める主、ジーヴァは個別的な生きた存在として説明しました。ここでは二語を追加します。Bhagavān(バガヴァーン)は、力・知・栄光などを備えた「尊い主」を意味します。deva(デーヴァ)は「輝く者」に関係し、多様な神々や天界存在を指します。devatā(デーヴァター)は、個々の神格、神性、祭りや祈りの対象を指します。以下の表は、これら五語の説明を先に一覧へまとめたものです。
| 概念 | おおよその位置 | 人間・解脱との関係 | 同一視してはいけないもの |
|---|---|---|---|
| Brahman | 究極的実在。学派により非人格的絶対者または最高人格者 | アートマン・ジーヴァとの関係が学派の争点 | 一人の天界的存在 |
| Īśvara | 主、世界の主宰者 | 帰依・恩寵・宇宙秩序との関係 | どの学派でも同じ創造神 |
| Bhagavān | 尊崇される主、人格的最高者 | 愛、帰依、奉仕の相手 | 非人格的原理だけを指す語 |
| deva/devatā | 神格、祭祀対象、天界的存在 | 強力でも輪廻内・未解脱の場合がある | 必ず全知全能の最高神 |
| jīva | 個別的な生きた存在・魂 | 束縛と解脱の主体として論じられる | 神格一般、単なるエゴ |
ここまでの概観では Brahman、Īśvara、Bhagavān、deva/devatā を簡潔に分けました。ここでは、人間と神の関係という視点からもう少し詳しく見ます。
ブラフマン――「世界の中にいる一人の神」ではない
ブラフマンは、少なくともヴェーダーンタでは、他の存在と並んで宇宙のどこかに住む一個の霊的存在ではありません。世界、自己、存在、意識の究極的根拠を問う概念です。
シャンカラのアドヴァイタでは、ニルグナ・ブラフマンは個別化や属性によって限定されない究極的実在として語られます。その場合、「ブラフマンに会う」という表現は、天界の誰かに面会することと同じではありません。見る主体と見られる対象という二分そのものが問い直されます。
しかしラーマーヌジャにとって、ブラフマンは属性のない匿名の純粋存在ではありません。ナーラーヤナという最高人格者であり、無限の吉祥な性質を持ち、世界と魂を自己の身体として含みます。マドヴァにとっても最高者ヴィシュヌは完全な人格神であり、個々の魂と永遠に異なります。
つまり、ブラフマンという一語だけでも、「非人格的絶対者か、人格的最高者か」という大きな論争が内部にあります。「ブラフマン=インド版God」と一語で訳して終えることはできません。
イーシュヴァラ――主宰者という概念
ここで出てくる「煩悩」は、心を乱し、誤認や束縛を生む傾向を意味します。
Īśvara(イーシュヴァラ)は「主」「支配者」を意味し、世界の主宰者として訳されることが多いです。しかし、その位置づけも学派で違います。
アドヴァイタでは、イーシュヴァラは世界の原因であり秩序を統御する主として経験的・宗教的に実在します。シャンカラはしばしば、属性と宇宙を伴うブラフマンと、絶対的非二元としてのブラフマンを区別します。ただしこれは「イーシュヴァラは偽物だから礼拝不要」という単純な話ではありません。世界、倫理、瞑想、帰依を含む経験的現実の全体は、解脱知に至る以前の人間にとって無意味ではありません。
古典ヨーガでは、心身の変化を見ている純粋な意識原理を puruṣa(プルシャ)と呼びます。『ヨーガ・スートラ』のイーシュヴァラは、煩悩、行為とその結果、過去の経験が残す潜在的な力に触れられない「特別なプルシャ」とされます。これは世界を一者として創造するアドヴァイタ的ブラフマンとも、すべてのプルシャの合体とも違います。多数のプルシャを認める体系の中に、特別なプルシャが置かれます。
ここで saguṇa(サグナ)は「性質・属性を備えた」という意味であり、先に説明した nirguṇa(ニルグナ、「属性によって限定されない」)と対になる語です。ただし、この対比の意味そのものが学派によって異なります。
ヴィシシュタ・アドヴァイタやドヴァイタでは、イーシュヴァラは最高人格神としてより中心的です。したがって「イーシュヴァラ=サグナ・ブラフマン」というシャンカラ系の説明を、全ヴェーダーンタの共通定義にしてはいけません。
バガヴァーン――「主」と呼びかけられる最高者
Bhagavān(バガヴァーン)は、力、栄光、知、主権などを備えた「尊い主」を表します。『バガヴァッド・ギーター』でクリシュナはバガヴァーンとして語られます。バクティ伝統にとって、最高者は抽象的な宇宙原理ではなく、愛し、愛され、呼びかけ、応答する存在であり得ます。
ここでは「神との一体性」があっても、関係が消えるとは限りません。私が神を愛し、神が私を慈しむという二人称的関係が救済の中心になり得ます。愛の完成を、愛する者と愛される者の消滅と同じにする必要はありません。
デーヴァ/デーヴァター――最高神から天界存在まで揺れる語
deva は「輝くもの」に関係する語であり、ヴェーダ以来、多様な神々を指してきました。devatā は神格、神性、特定の祭祀やマントラの対象などを指します。ところが現代日本語で「神」と訳すと、完全無欠の唯一神という像が入り込みやすくなります。
デーヴァターには、次の用法が重なっています。
- 火、風、太陽、雷など宇宙・自然の働きを人格的に担う神格。
- 祭祀やマントラが向けられる礼拝対象。
- 天界に生まれ、人間より長寿で精妙な身体や能力を持つ存在。
- 宇宙秩序の特定機能を担う神的職位。
- バクティ伝統で究極者の具体的な姿として礼拝される神格。
最後の用法があるため、「デーヴァターは全部、未解脱の下級霊だ」と定義することはできません。一方で、天界的身分としてのデーヴァは、解脱前のジーヴァであり得ます。この両方を保持する必要があります。
イシュタ・デーヴァター――「好きな神」以上のもの
iṣṭa-devatā(イシュタ・デーヴァター)は、個人が選び、特に礼拝・瞑想する神格を指します。「自分好みの低位神」という意味ではありません。ある実践者にとってクリシュナ、シヴァ、女神などは、絶対者へ向かうための便宜的アイコンではなく、最高者そのものの具体的な姿です。
ここには、無限定の究極を、名前と形を持つ関係的な姿で礼拝するという問題があります。ニルグナとサグナを「本物と偽物」「高級と低級」に単純化すると、バクティの宗教的意味を失ってしまいます。
最高者が世界へ現れる「アヴァターラ」――天界の神とは違う
avatāra(アヴァターラ)は「降下」を意味し、特にヴィシュヌが世界へ現れる化身の教説で知られます。アヴァターラを、功徳によって天界へ生まれた一人のデーヴァと同じにしてはいけません。前者は最高者が救済や秩序回復のために現れるという神学であり、後者は輪廻宇宙における出生上の身分を指し得る。
ここでも日本語では、どちらも「神様」で済んでしまいます。しかし、「神そのものの顕現」と「神々の世界にいる個体」は、同じ存在論ではありません。