アドヴァイタが日常の私を究極的自己としないなら、私たちが暮らす世界や、祈りの相手となる神はどうなるのでしょうか。「真我とブラフマンだけが本当なら、世界も神も偽物なのか」という疑問が生まれます。しかし、シャンカラの説明はそれほど単純ではありません。
世界は単なる妄想なのか
アドヴァイタを「世界は全部、自分の心が作った幻だ」と説明するのも不正確です。シャンカラは、「外の世界は個人の心が勝手に映し出したものにすぎない」とは考えません。経験世界は私たちに共通して経験され、日常生活の水準では有効です。ただし、それ自体で独立した究極的実在ではなく、ブラフマンに依存し、名前と形によって区別される秩序として位置づけられます。
したがってアドヴァイタから、「私個人の意識が他人や世界を自由に作っている」という考えを直接導くことはできません。本稿では後に、このような考えを「現実創造論」と呼びます。個人は Īśvara(イーシュヴァラ、世界を治める主)に、その存在自体を依存しており、夢や想像のように自分の心だけで宇宙を投影する力を持たないとされます。
世界を治める主としてのイーシュヴァラ
イーシュヴァラは、世界の原因であり、秩序を治める主として語られます。祈り、瞑想、倫理、行為の結果を含む私たちの経験世界では、人格的に語られる神への帰依も意味を持ちます。
一方、ニルグナ・ブラフマンは、名前や形や属性によって限定されない究極的実在です。ここで「属性を持つ神」と「属性を超えるブラフマン」が、二人の最高神として並ぶわけではありません。世界と差異を前提に語る水準と、究極的な非二元を語る水準が区別されます。
| 語る場面 | 中心となる概念 | 何を説明するか |
|---|---|---|
| 日常的・宗教的な経験世界 | イーシュヴァラ | 世界の秩序、祈り、倫理、帰依 |
| 究極的な非二元 | ニルグナ・ブラフマン | 名前・形・属性によって限定されない実在 |
この区別があるからこそ、「アートマン=ブラフマン」を「現在の私=世界を支配する人格神」と読み替えることはできません。個別のジーヴァ、世界を治めるイーシュヴァラ、究極的なブラフマンは、同じ一語の「神」で潰してはいけないのです。