『無限なるものとの調和』第II章――人間の根本事実


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人間の根本事実

私たちが合意してきた宇宙の大いなる中心的事実、すなわち万物の背後にあり、万物がそこから生じる無限の生命の霊から、今度は人間の生命における大いなる中心的事実とは何か、という問いが導かれる。これまでの話から、その答えはほとんど自ずと明らかである。

人間の生命における、あなたと私の人生における大いなる中心的事実とは、この無限の生命と自分たちが一つであることを、意識をもって生き生きと悟り、神的な流入に向けて自らを完全に開くことである。これこそ人間の生命における大いなる中心的事実であり、ほかのすべてはここに含まれ、ここから続いて生じる。無限の生命と自分たちが一つであることを意識して悟り、この神的な流入に自らを開く、その度合いに応じて、私たちは無限の生命の性質と力を自らの内に現実化する。

では、これは何を意味するのか。簡単に言えば、自分の真の本質を認めるということだ。世界の歴史に現れた預言者、見者、賢者、救済者、真に偉大で強大な力を持った人々と同じ大いなる法則と力に、自らの生を調和させ、彼らと同じ大いなる霊感に自らを開くのである。この悟りに至り、無限の源と結びつく度合いに応じて、高次の力が私たちを通して働き、活動し、現れることが可能になる。

私たちは、たいていの人がそうしているように、無知ゆえにこの神的な流入、こうした高次の力に対して自らを閉ざし、その力が自分を通して現れるのを妨げ、あるいは阻むことさえできる。また、意図的にその働きを拒み、私たちの本性からして正当に受け継ぐべき力を自ら奪うこともできる。その一方で、真の自己とこの無限の生命が一つであることを生き生きと悟り、この神的な流入を受け入れ、高次の力、霊感、能力の働きに完全に自らを開けば、まさしく「神人」と呼ぶにふさわしい者になることができる。

神人とは何か。人でありながら、その内に神の力が現れている者である。このような人に、他者が限界を定めることはできない。その人にありうる限界は、自らが設けるものだけだからである。

ある友人の農園には、美しい蓮池がある。彼がいつも農園と呼ぶその敷地には自然のくぼ地があり、少し離れた山麓の貯水池から水を引いている。貯水池から池へ水を運ぶ幹線水路には水門があり、流れを調節している。

そこは、このうえなく美しい場所だ。夏の申し分ない日々、澄みきった水面には、満開の蓮の花が浮かぶ。岸辺には六月咲きのバラやほかの野の花が絶えず咲いている。鳥たちは水を飲み、水浴びをしにやって来て、朝から夕暮れまでその歌声が響く。野花の庭では、蜂が絶えず働いている。野生の木の実や、さまざまなシダ類の茂る美しい林が、見渡すかぎり池の奥へと広がっている。

この友人は人間だ。いや、それ以上に神人であり、同胞を愛する人だ。そのため、彼の敷地には「私有地につき立入禁止」や「侵入者は訴追する」といった看板は立っていない。代わりに、森を抜けてこの魅惑的な場所へ続く美しい小道の入口には、「蓮池へ、どなたでもどうぞ」と書かれた看板が立っている。誰もがこの友人を愛している。なぜだろう。愛さずにはいられないのだ。彼が皆を深く愛しており、彼のものは皆のものだからである。

ここでは、楽しげな子どもたちの一団が遊んでいることがよくある。疲れきった様子の男女も、たびたびここへやって来る。そして帰るときにはどういうわけか、顔つきが変わっている。重荷が取り除かれたようなのだ。帰りぎわに、ときには祝福の言葉を唱えるようなかすかな声で、「兄弟である友人に神の祝福を」と言うのを、私は幾度か耳にした。この場所を「神の庭」と呼ぶ人も多い。友人は「魂の庭」と呼び、ここで静かな時を幾時間も過ごす。ほかの人々が帰ったあと、彼が行きつ戻りつ歩いたり、古びた素朴なベンチに腰かけ、澄んだ月光のもとで野花の香りを胸いっぱいに吸い込んだりする姿を、私はよく見かけた。彼は、飾り気のない美しい人柄の持ち主だ。ここでは人生の真実が自分に訪れ、最大の、最も実りある計画も、しばしばひらめきのようにここで思い浮かぶのだと、彼は言う。

あたり一帯のすべてが、親切さ、安らぎ、善意、そして明るい喜びの気配を漂わせている。林の端にある古い石垣まで来て、この美しい場所を眺める牛や羊でさえ、人々と同じ楽しみを得ているように見える。満ち足りた喜びを感じて、まるで微笑んでいるかのようだ。あるいは、それを眺める人の目にそう映るのかもしれない。牛や羊が満ち足り、喜んでいる様子を目にすれば、こちらも思わず笑みを浮かべずにはいられないのだから。

池の水門はいつも十分に開かれ、豊かな水が絶えず流れ込んでいる。その水は池からあふれ、下の畑を流れる小川を養うほどだ。そこで草を食む牛や羊は、澄んだ山の水を飲むことができる。小川はさらに隣人たちの畑へ流れていく。

少し前、友人は一年間留守にした。その間、世間一般の言い方をすれば、たいそう「実利的」な考え方の男に農園を貸した。その男は、直接「実利」をもたらさないことに時間を割かなかった。貯水池と蓮池をつなぐ水門は閉じられ、澄んだ山の水が池に流れ込み、あふれることもなくなった。友人が掲げていた「蓮池へ、どなたでもどうぞ」という看板も取り外され、子どもたちや男女の楽しげな一団が池に集うこともなくなった。すべてに大きな変化が訪れた。生命を育む水がなくなり、池の花はしおれ、長い茎は底の泥の上に横たわった。かつて澄んだ水を泳いでいた魚は、まもなく死に、近くに来る者に悪臭を放った。岸辺の花も咲かなくなった。鳥たちは水を飲み、水浴びをしに来なくなった。蜂の羽音も聞こえなくなった。そればかりか、下の畑を流れていた小川まで干上がり、牛や羊は澄んだ山の水を得られなくなった。

今のこの場所と、友人が心を配っていたころの蓮池との違いは、すぐに分かるように、水門が閉じられ、生命の源である丘の貯水池から水が入らなくなったことによる。その生命の源を断たれたとき、蓮池の姿がすっかり変わっただけでなく、周囲の畑も、小川のほとりへ牛や羊が水を飲みに来ていたその流れを失ったのだ。

人間の生にも、これとまったく同じことが見られるのではないだろうか。万物の生命である無限の霊と自分たちが一つであり、それと結ばれていると認め、神的な流入に自らを開く、その度合いに応じて、私たちはあらゆるところにある最も高く、最も力強く、最も美しいものと調和する。そしてその度合いに応じて、私たち自身からあふれ出し、触れ合う人々も、私たちの悟りの影響を受ける。これが、宇宙の最も真実で最も善いものすべてを愛する、あの友人の蓮池である。反対に、この無限の源と自分たちが一つであることを認めず、神的な流入に心を閉ざすほど、善も美も力も自分には何もないような状態へ陥っていく。そして実際にそうなれば、私たちと触れ合う人々が受け取るのは善ではなく害である。これが、農園が借主の手に渡っていたころの蓮池の姿だ。

蓮池と、あなたや私の生命との間には、次の違いがある。蓮池そのものには、生命の源である貯水池から水が流れ込むよう、水門を開く力はない。その点では無力であり、外からの働きに頼っている。だがあなたにも私にも、自分の内に、この神的な流入に対して自らを開くか閉ざすかを、思いどおりに選ぶ力がある。それは精神の力、思考の働きによって備わっている。

神から直接来る魂の生命がある。それによって私たちは無限なるものと結びついている。また、身体の生命がある。それによって私たちは周囲の物質的な宇宙と結びついている。思考の生命は、この二つをつなぐ。それは両者の間に働くものである。

先へ進む前に、思考の本質を手短に考えてみよう。思考は、しばしば考えられているような、輪郭の定かでない抽象物や、それに類するものではない。むしろ、生命を帯びた生きた力であり、宇宙にある力の中でも、最も生命的で、精妙で、抗しがたい力なのである。

実験室で行う実験そのものによって、思考は力であるという大いなる事実が示されつつある。思考には形も性質も実体も力もある。そして、いわば「思考の科学」と呼べるものがあると分かり始めている。さらに、思考の力を媒介として、私たちには創造する力があることも見え始めた。それは比喩の上だけではなく、現実に創造する力なのである。

私たちを取り巻く物質宇宙のすべて、宇宙がこれまでに知ったすべてのものは、まず思考に始まり、そこから形を得た。城も、彫像も、絵画も、機械の一つ一つも、あらゆるものが、形にした人の心に最初の誕生、起源を持ち、物質として表現され、具体化されるのはその後だった。私たちが暮らすこの宇宙そのものも、万物の背後にある無限の霊、神の思考の力が生み出した結果である。私たちの真の自己も本質において同じであり、その意味でこの無限の霊の生命と一つだというのなら、この驚くべき事実を生き生きと悟るほど、私たちもまた、内なる霊的な思考の力の働きを通じて、同じ意味で創造する力を持つと分かるのではないだろうか。

あらゆるものは、目に見える形で現れ、実現する前に、まず目に見えないところに存在する。この意味で、見えないものこそ実在であり、見えるものは非実在だと言える。見えないものが原因であり、見えるものは結果である。見えないものは永遠であり、見えるものは移り変わり、過ぎ去る。

「言葉の力」は、文字どおり科学的な事実である。思考の力が働くことによって、私たちは創造する力を持つ。口に出した言葉は、内なる力の働きを外に表したものにほかならない。したがって、ある意味で言葉とは、思考の力を集め、特定の方向へ導く手段である。その力が外に、あるいは物質的な形で現れるには、思考を集中させ、方向づけることが必要なのだ。

「空中に城を築く」ことについてはよく語られ、そうする人がいつも好意的に見られるとは限らない。だが、地上に城を建て、そこで暮らすには、まず空中に城を築くことが必要である。空想にふける人の問題は、空中に城を築くことではない。そこで終わり、築いた城を人生や人格、物質的な形の中で実現するところまで進まないことにある。その人は必要な仕事の一部をしているが、それと同じほど必要なもう一つの部分が、まだ残されているのだ。

思考の力には、いわば心の引き寄せる力がある。ここに働く大いなる法則は、「類は類を引き寄せる」という宇宙の大法則と一つである。私たちは、目に見える側と見えない側の双方から、自分の思考に最も近い力や状態を絶えず引き寄せている。

この法則は、私たちが意識しているかどうかにかかわらず、絶えず働いている。たとえて言えば、私たちはみな、広大な思考の海の中で生きている。私たちを取り巻く大気そのものが、絶えず送り出され、あるいは思考波となって外へ発せられる思考の力に満たされている。私たちは誰もが、意識するにせよ無意識にせよ、こうした思考の力に多かれ少なかれ影響される。そして、感受性の強い気質であるほど、また積極的でいるより受け身で外からの影響に開かれているほど、どのような影響が思考の領域に入り、ひいては人生に入り込むかが左右される。

人の中には、ほかの人よりはるかに感受性の強い体質の者がいる。身体という組織が、より繊細に、敏感につくられているのだ。概してこのような人は、接する相手や一緒にいる人々の気質に、常に多かれ少なかれ影響を受ける。大新聞の一つを編集する私の友人は、とりわけ感受性が強い。レセプションのような集まりに出席し、夜の間に大勢の人と話をして握手をすれば、相手それぞれの心身の状態を多少なりとも受け取らずにはいられない。その影響は非常に大きく、二、三日たつまで、自分らしさも、仕事に最適な調子もほとんど取り戻せないほどだ。

感受性が強い体質を不運だと思う人もいる。決してそうではない。内なる魂の高次の促しや、外から来るあらゆる高次の力と影響に、より開かれ、受け入れやすくなるのだから、よいことなのだ。ただし、有害な影響や望ましくない影響に対して自らを閉じ、積極的な姿勢を保つ力を認め、それを身につけなければ、そのような体質は不都合で、ひどく厄介なものにもなりうる。この力は、どれほど感受性の強い人であっても身につけることができる。

この力は、心の働きを通じて身につけられる。さらに、感受性の強弱を問わず、誰にとってもこれほど価値のある習慣はない。折に触れて、次の心構えを取り、それを保つことである――「私は自らを閉じる。低次のものすべてに対しては積極的な姿勢をとり、高次の影響すべてに、上なるものすべてに対しては、心を開いて受け入れる」。この心構えを時折、意識してとるなら、やがて習慣となる。そして真剣に取り組めば、望む結果をもたらす、静かではあるが精妙で力強い作用が働き始める。こうして、目に見える側からも見えない側からも来る低次で望ましくない影響は退けられ、高次の影響は招き入れられる。招き入れる度合いに応じて、それらは入ってくるのである。

生命の目に見えない側とは、何を指すのだろうか。第一に、思考の力、つまり、肉体を通じて物質界に現れている人々が生み出す、私たちを取り巻く雰囲気の中の精神的・感情的な状態である。第二に、肉体を脱いだ人々、あるいは肉体を取り去られた人々が、性質の異なる身体を通じて今あらわしている、同じ力である。

「人間の個としての存在は、物質世界の感覚の次元に始まる。しかし、内なる神的な生命と力が絶えず開かれていくのに応じて、エーテル的な領域、天上の領域を次々と段階を経て上り、言葉では表せない壮大さと栄光に満ちた運命へと向かう。あらゆる物質的な惑星の内にも上にも、それに対応するエーテル的な惑星、すなわち魂の世界がある。それは、あらゆる肉体の内にも上にも、それに対応するエーテル的な身体、すなわち魂の身体があり、肉体はその外面的な対応物、物質として表れた姿にすぎないのと同じである。肉体を離れて上昇した人類がまず住むのは、このエーテル化した惑星、すなわち魂の惑星である。そこから、領域の内に、またその上に、さらに領域が無限の段階をなして高まり、あるいは深まり、感覚に頼る人間にはまったく想像もできない、霊化された存在の天上的な高みにまで至る。したがって、身体をまとうことには二つの形がある。肉体は、いわば一時的な殻にすぎず、その中で、それを通じて、真に実在し永続するエーテル的な身体が個として形づくられ、完成される。それは、殻を通じて『穂の中に充実した実』が育ち、実が育てば殻はもはや用をなさなくなるのに似ている。この滅びることのないエーテル的な身体と、それに対応するエーテル的な環境の諸領域、そしてその領域での社会生活や人々の関係を通じて、個性と個人の生命は永遠に保たれる。」

どのような形であれ、生命が存在するという事実は、たとえその形が変わっても、生命が続くことを意味する。生命は宇宙の唯一の永遠なる原理であり、それが現れるための媒体の形が変わっても、常に続いていく。「私の父の家には、住まいがたくさんある」。そして確かに、個人が肉体を脱ぎ、そこから出ていったからといって、生命が以前と同じようにそのまま続かないという証拠は、まったくない。それは新たに始まるのではない――途絶えることがないのだから――。ただ、ここで離れたまさにその地点から、別の形で始まるのである。すべての生命は、一歩一歩、絶えず進化していくものであり、そこでは段階を飛ばしたり、飛躍したりはしない。

したがって、別の形で生きる者たちにも、肉体を持って生きる者たちと同じように、あらゆる段階の心のあり方があり、それに応じた生き方や影響力がある。類は類を引き寄せるという大いなる法則が絶えず働いているのなら、私たちは生命のこちら側からも、自分自身の思考や生き方に最も近い影響や状態を、絶えず引き寄せていることになる。そのような影響を受けるとは気味の悪い話だ、と言う人もいる。決してそうではない。すべての生命は一つであり、私たちはみな、共通の普遍的な一つの生命の中で結ばれている。とりわけ、どのような思考を心に抱き、その結果どのような影響を引き寄せるかを決めるのは、ひとえに自分自身なのだと考えれば、なおさらである。自らそうあろうと選ぶのでないかぎり、私たちは、周囲の事情に柳のようになびくだけの存在ではない。

心の生活において、私たちは舵をしっかり握り、どの進路を取り、どこへ立ち寄るかを自分で定めることができる。そうしなければ、流され、通りすぎる風にあちらへこちらへと吹き寄せられることになる。だから、先ほどの考えは、むしろ歓迎すべきものなのだ。それによって私たちは、いつの時代、どこの土地であれ、地上に生きた最も偉大で、最も気高く、最も善良な人々の影響と助けを、自分のもとへ招くことができるのだから。

この世で愛をもって、人々を高める力を働かせてきた人々は、今も同じように働き続けていると考えるほかに、道理にかなった考え方はない。おそらく、いっそう熱心に、さらに大きな力をもって働いているのである。

「エリシャは祈って言った。『主よ、どうか彼の目を開いて、見えるようにしてください』。主はその若者の目を開かれた。すると彼には見えた。なんと、エリシャを取り巻く山は、火の馬と戦車で満ちていた。」

数日前、友人と乗り物で出かけたとき、私たちは、どこでも人々が生命のより本質的な事柄に強い関心を寄せていること、内なる力を知ろうと熱心に求めていること、自分自身を知り、無限なるものとの真の関係を知りたいという願いが、ますます高まっていることを話していた。そして、今世紀の終わりにその始まりがはっきり見え、来たる世紀の初めには、ますます大きく広がっていくのを私たちが目にするであろう、世界中で急速に進む大いなる霊的な目覚めについて語りながら、私は言った。「時代をはるかに先んじた、あの悟りを得たエマソンが、まさにこのような状況をもたらそうと、あれほど誠実に、恐れずに働いた彼が、今日ここにいて、これをすべて見届けられたら、どんなにすばらしいだろう。どれほど喜ぶことだろう!」。すると友人は答えた。「彼がこれをすべて見ていないと、どうして分かるのだろう。そればかりか、これらすべてに力を貸していないと、どうして言えるのだろう。ここで彼の姿を目にしていたころより、もっと大きな力を貸しているのかもしれないのに」。友よ、思い出させてくれてありがとう。まことに、「彼らはみな、救いを受け継ぐ人々に仕えるために遣わされた、奉仕する霊ではないか」。

今日、科学が十分に示しているように、私たちの目に見えるものは、存在するもののごく小さな一部分にすぎない。自分たちの生命や周囲の世界に働く、真に生きた力は、普通の肉眼には見えない。だが、それらこそ原因であり、目に見えるすべてのものは、その結果にすぎない。思考は力である。同類は同類を生み、同類は同類を引き寄せる。したがって、自分の思考を治めることは、自分の人生を定めることなのである。

物事の本質を深く見抜くある人は、こう言っている。「霊的なものと物質的なものの間にある対応の法則は、驚くほど正確に働く。陰鬱な気分に支配される人は、陰鬱なものを自分のもとへ引き寄せる。いつも気落ちし、意気消沈している人は、何事にも成功せず、ただ誰かの重荷となって生きる。希望に満ち、自信があり、快活な人は、成功をもたらす要素を引き寄せる。男の家の前庭や裏庭は、その手入れの仕方によって、彼を支配する気分を外に示す。家にいる女は、服装にその心の状態を表す。だらしのない女は、希望のなさ、不注意、秩序の欠如という、心を支配する気分を示している。ぼろや裂けた衣服や汚れは、身体に現れる前に、必ず心の中にある。最も多く外へ発する思考は、それに対応する目に見える要素を、あなたの周りに結晶させる。それは、溶液の中にある目に見える銅片が、その溶液中の目に見えない銅を引きつけるのと同じくらい確実であり、文字どおりに起こる。常に希望と自信と勇気を持ち、定めた目的に向けて決意を固め、その目的を保つ心は、周囲の諸要素の中から、目的にかなう物事や力を自らに引き寄せる。

「あなたの思考の一つ一つは、あらゆる面で、あなた自身にとって文字どおりの価値を持つ。身体の強さ、心の強さ、仕事の成功、あなたと一緒にいることが人に与える喜びは、あなたの思考の性質にかかっている。……どのような気分に心を置くにせよ、あなたの霊は、その気分に対応する目に見えない実体を受け取る。これは霊的な法則であると同じくらい、化学的な法則でもある。化学は、私たちに見える元素だけに限られない。肉眼に見えない元素の数は、見えるものの一万倍にもなる。『自分を憎む者に善を行いなさい』というキリストの教えは、科学的な事実と自然の法則に基づいている。したがって、善を行うことは、自然の中の力と善の要素をすべて自らに招くことである。悪を行うことは、反対に破壊的な要素を招くことである。目が開かれれば、自分自身を守ろうとする気持ちから、私たちは悪い思考をすべてやめるだろう。憎しみによって生きる者は、憎しみによって死ぬ。つまり、『剣によって生きる者は、剣によって死ぬ』のである。悪い思考はすべて、それを向けられた人に対して抜かれた剣のようなものだ。相手も剣を抜いて応じれば、双方にとって、それだけ事態は悪くなる。」

また、自分の語ることを十分に知っている別の人は、こう言っている。「引き寄せの法則は、働きのあらゆる次元で普遍的に作用し、私たちは、自分が望むもの、あるいは予期するものを引き寄せる。あるものを望みながら、それとは別のものを予期するなら、私たちは、内輪で争って分裂し、たちまち荒廃に至る家のようになる。自分が望むものだけを予期しようと、固く決心しなさい。そうすれば、願うものだけを引き寄せるようになる。……どのような思考でも、好きなものを心に抱いていなさい。それを保っているかぎり、陸や海をどれほど遠くへさまよっても、意識していようと、気づかずにいようと、自分を支配する思考の性質に、まさに対応するものだけを、絶えず自らに引き寄せることになる。思考は私たち自身のものであり、それを調整する力が自分にはあると、たゆまず認めることによって、まったく自分の望みどおりに整えることができる。」

ここまで、心の引き寄せる力について述べてきた。信念とは、実現への期待を伴う切実な願いという形で、思考の力が働くことにほかならない。こうして送り出された切実な願い、すなわち信念を絶えず保ち、確かな期待によって育てるほど、それが目指すものを自らに引き寄せ、あるいは、目に見えないものを見えるものへ、霊的なものを物質的なものへと変えていく。

疑いや恐れが入り込むと、本来なら大きな力となるものが打ち消され、実現に至らなくなる。絶えず保ち、確かな期待によって絶えず育てるなら、それは抗しがたく、揺るぎない力、引き寄せる力となる。そして、その力が揺るぎないものである度合いに、結果の確かさも正比例する。

今日、私たちが急速に分かり始めているように、信念について語られてきた大いなる事柄や、それに結びつけられた大いなる約束は、漠然とした感傷にすぎないものではなく、すべて大いなる科学的事実であり、変わることのない大いなる法則に基づいていると、やがて分かるだろう。実験室での実験においてさえ、私たちは、こうした力の根底にあり、それを支配する法則を発見し始めている。今では、少なくとも一部の人々は、長い間しばしばそうしてきたように盲目的にではなく、理解したうえで、その力を使い始めている。

今日、意志については多くのことが語られている。意志は、それ自体が一つの力であるかのように語られることが多い。だが、意志が力を持つのは、それが思考の力の現れの一つの形であるかぎりにおいてである。私たちが「意志」と呼ぶものによって、思考は集中され、特定の方向を与えられる。そして、そのように集中され、方向づけられる度合いに応じて、思考は、それが果たそうとして送り出された仕事に力を発揮する。

ある意味では、意志には人間的なものと神的なものの二種類がある。人間的な意志は、便宜上、低次の自己と呼べるものの意志である。それは、心と身体の領域だけに生命を見いだす意志、感覚に基づく意志である。知性と肉体の感覚だけの生活をはるかに超える生命があることに、まだ目覚めていない人の意志なのだ。その高次の生命を自覚して生きても、知性や感覚がなくなったり、小さくなったりするのではない。反対に、それらは最も高い完成へと導かれ、最も鋭く喜びを味わう力を発揮するようになる。神的な意志とは、高次の自己の意志、神なるものと自分が一つであることを認め、その結果、自分の意志を神的な意志と調和させ、ともに働かせる人の意志である。「あなたのただ中におられる、あなたの神、主は力強い」。

人間的な意志には限界がある。法則は、「ここまではよいが、それより先へは進めない」と告げる。神的な意志には限界がない。それは至高のものである。法則は、「すべてのものはあなたに開かれ、あなたに従う」と告げる。したがって、人間的な意志が神的な意志へと変わり、神的なものと調和して、ともに働くようになるほど、それもまた至高のものとなる。そのときこそ、「あなたが事を定めれば、それはあなたのために成し遂げられる」のである。ゆえに、生命と力の大いなる秘密は、この無限の源とのつながりを意識して築き、それを保つことにある。

一人一人の生命の力、生命そのものは、何と結びつくかによって定まる。神は、超越していると同時に、内にも宿っている。神は今日も、この宇宙において、あなたの生命にも私の生命にも、これまでとまったく同じように、創造し、働き、治めている。私たちはあまりにも、神を不在地主のように見なしがちである。この大宇宙の力を働かせ始めたあと、自分は立ち去ってしまった存在のように。

しかし、神は超越していると同時に内にも宿っていると認めるほど、私たちはその生命と力にあずかることができる。神を、今日、この瞬間にも、万物の内に、万物を通じて働き、現れている無限の生命と力の霊として認め、さらに、その生命と自分が一つであることを自覚するほど、私たちはそれにあずかり、神の生命の特質を自らの内に実現する。内に宿ると同時に超越してもいる、この生命の流れに自らを開くほど、私たちは、無限の知性と力が働く通路となるのである。

心の働きを通じて、私たちは真の魂の生命を身体の生命と結びつけ、魂の生命が身体を通じて現れ、働けるようにする。思考の生命は、絶えず内から照らされる必要がある。この照らしは、心を通じて、神なるものと自分が一つであることを認める度合いに応じて訪れる。一つ一つの魂は、その神なるものが個別の形で表れたものなのである。

これによって、直観と呼ばれる内なる導きが得られる。「直観が霊的な性質や理解に対して果たす役割は、感覚による知覚が感覚的な性質や理解に対して果たす役割と、実質的に同じである。直観は内なる霊的な感覚であり、それによって人は、神から直接受ける啓示や神についての知識、自然と生命の秘密に開かれる。また、神との一体性と交わりを意識するようになり、神の子として、自らの神的な性質と存在の至高性を自覚する。神の霊感のもとで直観が発達し、完成することによって、このように得られる霊的な至高性と照らしは、注意や関心を向けるあらゆるものの本質、特性、目的について、完全な内なる視野と直接の洞察を与える。……繰り返すが、肉体の感覚が外へ開かれるのに対し、これは内へ開かれる霊的な感覚である。外から得るあらゆる情報に頼らず、真理を直接に知覚し、つかみ、知る力があるため、私たちはこれを直観と呼ぶ。霊感による教えや霊的な啓示はすべて、魂にこの霊的な能力があり、それらを受け取って自分のものにする力があると認めることに基づいている。……この上なく強い願いと信頼から生まれる、霊と目的における父との意識的な一体性は、この内なる感覚を通して人の魂を開き、神の全知から直接来る霊感と光、そして、ともに働く神の全能の力を受け入れさせる。そのもとで、人は見者となり、熟達者となる。

「肉体を持ちながら霊的な生命を自覚して生きる、この高い次元では、心は個人的な利害を離れた姿勢を保ち、何ものにも縛られない自由と偏りのない視野をもって働き、外から得るあらゆる情報に頼らず、真理を直接につかむ。あらゆる存在や物事に神的な側から近づくと、それらは神の全知の光の中で見えてくる。それらに込められた神の目的、したがって神の心の中にある、それらについての真理は、このように神の心から直接来る光によって明かされる。魂は、私たちが直観と呼ぶこの霊的な感覚を通して、内から神の心へと開かれるのである」。これを魂の声と呼ぶ人も、神の声と呼ぶ人も、第六感と呼ぶ人もいる。これは私たちの内なる霊的な感覚である。

私たちが自分自身の真の姿を知り、自らの生命が無限の生命と一つであることを自覚し、この神的な流入に自らを開くほど、直観の声、魂の声、神の声は、はっきりと語りかける。そして、その声を認め、耳を傾け、従うほど、それはますます明瞭になり、やがて、その導きが誤らない、まったく誤ることのないものとなる時が来る。

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