趙武帝は秦の混乱に乗じて、領表の地をことごとく支配し、番禺に都を置いた。漢の高祖と、それぞれ一方の地で帝を称した。民を愛する仁と、国を守る知恵を備えていた。武功は蠶叢をも震撼させ、文教は象郡にまで及んだ。詩書によって国の風俗を教え、仁義によって人心を固く結びつけた。民に耕作を教え、国は富み、兵は強かった。使者を遣わす際には言葉がきわめて謙虚で、南北は親しく交わり、天下は平穏だった。在位は百年余りに及び、まことに英雄の才略を備えた君主であった。
文王は武帝の嫡孫として、先代の事業を受け継いだ。制度や典章はすべて先王の定めに従い、隣国には義をもって接し、敵を退けて辺境を安定させた。代を継ぎ、先王の事業を守り固めた君主であった。
明王の嗣徳年間の初め、王は安逸と放縦に流れた。樛后が寵愛を受け、越姫は廃されたため、国内は不和となり、政治の秩序は大いに乱れた。哀王は幼少で国を治める道理に暗く、母后は驕慢で放縦にふるまい、権臣が政権を握った。その結果、趙家の基業はついに衰退した。術陽王は哀王の兄として権臣に擁立されたが、知力は浅く、強敵が侵入すると、趙氏の国の基盤はここに滅びた。哀王の禍をたどれば、呂嘉によって引き起こされたとはいえ、実際には明王が樛后を寵愛したことで招かれたのだった。女色が国家を傾けるのはこのようであり、深く戒めとすべきである。
訳注
| 対応する訳文 | 語句 | 読者向け解説 |
|---|---|---|
| 樛后が寵愛を受け、越姫は廃された | 樛后・越姫 | 本文が明王の治世について名を挙げる二人。ここでは、樛后が寵愛され、越姫が退けられたと述べている。 |
| 女色が国家を傾ける | 女色 | 女性への寵愛が国を傾けるという、本文の史評に示された見方。 |