本記事はAIを活用して作成しています。
ここで第IX部の問題が戻ってきます。
究極的にはブラフマンだけであるなら、被害、搾取、嘘、権力差も本当は存在しないのでしょうか。シャンカラの二水準を雑に使えば、そう言えてしまいます。しかし、それは経験世界と究極的立場を都合よく混ぜる誤用です。
身体を持ち、他者と暮らし、行為の結果を受ける限り、倫理と責任は経験世界で働きます。「私は行為者ではない」「善悪は二元論だ」と言って他者を傷つける人は、その発言、行為、利益だけは経験世界で保持しながら、責任だけを究極の立場で消そうとしています。
同じことは教祖にも当てはまります。
信者の批判
「それはエゴだから捨てなさい」
指導者の欲望
「これは神意だから従いなさい」
これは非二元ではなく、二つの基準の使い分けです。
アドヴァイタを権力の抑制へ使うなら、最初に問われるのは指導者自身です。その人は、自分の人格、欲望、判断、霊的体験をブラフマンと同一視していないか。自分だけを真理の所有者として例外化していないか。他者にも同じアートマンを見るなら、他者の尊厳、判断、身体、離脱の自由を奪うことはできないはずです。
もちろん、非二元の教義が自動的に健全な組織を作るわけではありません。だから第IX部の具体的な点検は残ります。形而上学は、会計監査、権力分立、相談窓口、離脱の自由の代わりにはなりません。