ここで、記事の最初にあった言葉へ戻りましょう。
私は神である。
シャンカラ的に読むなら、この文はそのままでは不正確です。「私」と「神」のどちらにも、経験世界の意味と究極的な意味が混ざっているからです。
ただし、ここでいう「神」という日本語には注意が必要です。古典的なアドヴァイタは、デーヴァター、イーシュヴァラ、アートマン、ブラフマンを、すべて同じ意味の「神」として並べるわけではありません。
デーヴァターは、経験世界の中で特定の姿、働き、強い力を持つ神格です。その多くは、人間と同じく業と輪廻の枠内にあるジーヴァとして理解されます。少なくとも、神格であるというだけでモークシャを得ているとは限りません。一方、イーシュヴァラやバガヴァーンは、経験世界の主として語られる人格的な神であり、アドヴァイタでは属性を伴うブラフマンとして理解されます。さらに、究極的なアートマンとブラフマンは、世界のどこかにいる強大な人格というより、存在と意識の根本です。
| 用語 | アドヴァイタにおける位置 | 日本語の「神」との関係 |
|---|---|---|
| デーヴァター | 経験世界の中で、特定の姿・働き・力を持つ神格 | 「神々」「神格」に近い |
| イーシュヴァラ/バガヴァーン | グナ、すなわち属性を伴い、世界の主、祈りや帰依の相手として語られる | 人格神としての「神」に近い |
| ニルグナ・ブラフマン | 属性や人格によって限定されない究極的実在 | 通常イメージされる人格神とは異なる |
| アートマン | 人格的履歴を持つ個人ではなく、純粋意識としての真の自己。究極的にはブラフマンと同一 | 神格の一種ではなく、ブラフマンとの同一性によって理解される |
したがって、ここから「私は神」を読み直すとき、個人がデーヴァターやイーシュヴァラのような力を持つ、という意味ではありません。本稿では日常的な表現との比較のため、究極的実在まで含む広い言葉として、あえて「神」を使います。より厳密には、「真の自己である意識は、究極的実在であるブラフマンと同一である」と言うべき内容です。
| 読み方 | アドヴァイタからの評価 |
|---|---|
| この人格的な私は全知全能の神である | 誤り。ジーヴァとイーシュヴァラを混同する |
| 私の思考が世界全体を作る | 誤り。個人の心に宇宙的投影力はない |
| 私には神的な尊厳がある | 経験世界の倫理的表現として理解できる |
| 私の存在の根本は、他者や世界の存在の根本と別ではない | アドヴァイタの中心命題に近い |
| 真の自己であるアートマンはブラフマンと同一である | 究極的な立場での中心命題 |
したがって、アドヴァイタが認める「私は神」は、人格的自我の能力宣言ではありません。むしろ、「私」という語から身体、経歴、欲望、恐れ、霊的肩書、特別な使命を一つずつ外していった先に残る、純粋意識としての自己を指します。
これは「私が宇宙大に拡大する」というより、「独立した小さな私だという取り違えがほどける」運動です。
両者は一続きの段階ではなく、別々の方向へ進む読み方です。
| 自己神格化へ向かう読み | アドヴァイタの読み |
|---|---|
| 人格的な私を大きくする | 人格的な私への同一化をほどく |
| 「私は宇宙を動かせる」と考える | 「真の自己は存在の根本と同一だった」と気づく |
似た言葉を使っていても、方向は反対です。