仏教の「究極」は神なのか
この節で用いる「法界」は真理と存在の全領域を、「無為」は条件によって作られたものではないことを、「衆生」は生きる存在を意味します。
仏教では、身心を構成する五つのまとまりを五蘊と呼び、それらのどこにも永遠不変の自己を見いだしません。煩悩と、生まれ変わりに伴う苦が静まった状態は涅槃と呼ばれます。すでに触れた空は、固定した自前の本体がないことを示します。仏性は、すべての人が仏になり得る可能性や本来の清らかさを表します。
また阿弥陀仏は、すべての人を救うという根本の願いを立てた仏として浄土教の中心となります。この根本の願いを「本願」と呼び、自分の力だけでなく阿弥陀仏の本願の力によって救われるという方向を「他力」と呼びます。大日如来は真言密教で宇宙的な仏として説かれ、仏の真理そのものとしての身体は法身と呼ばれます。以下の表は、これらを一度説明した後の要約です。
| 仏教概念 | 人格的創造神か | 何を説明するか | 「私が神」との違い |
|---|---|---|---|
| 涅槃 | いいえ | 煩悩と輪廻的苦の止滅 | 巨大存在へ個我が融合する話ではない |
| 空 | いいえ | 固定的自性の欠如と縁起 | 一つの宇宙精神を立てない |
| 仏性 | いいえ | 成仏可能性、本来清浄性等 | 現在の欲望と判断の絶対化ではない |
| 阿弥陀仏 | 一神教的創造神とは異なる | 本願と救済、浄土往生 | 人格的自我が阿弥陀仏になるという意味ではない |
| 大日如来・法身 | 一神教的創造神とは異なる | 法界・真理・仏の究極的身体 | 宗派固有の教理を宇宙意識へ還元しない |
仏教を「神を信じない宗教」とだけ説明すると、創造神を中心にしないという点は捉えられますが、涅槃、法、法身、仏性、阿弥陀仏、大日如来などの違いが消えてしまいます。
逆に、これらをすべて「仏教のGod」と訳しても誤りになります。
涅槃は創造神ではない
涅槃は、世界を意志によって創造した人格神ではありません。煩悩と輪廻的苦の消滅、無為という方向で語られます。人間が涅槃という巨大存在へ融合する、という物語でもありません。
空は宇宙意識ではない
中観の śūnyatā(空)は、万物の背後にある一つの精神的実体ではありません。あらゆるものが独立した自性を欠き、縁起していることを示します。したがって「すべては空」を「すべては一つの神的エネルギー」と翻訳すると、実体視を解体する思想を、新しい実体的一元論へ戻してしまいます。
仏性は人格的自我の神格化ではない
「如来蔵」は、生きる存在である衆生のうちに、仏となる可能性や仏の本性が蔵されているとする考えを表します。
如来蔵・仏性思想は、すべての衆生の成仏可能性や本来清浄性を語ります。しかし、「今の私の欲望と判断が仏である」という意味ではありません。仏性をアートマンやハイヤーセルフと比較することはできても、同義語にはできません。
阿弥陀仏や大日如来は創造神と同じではない
浄土教の阿弥陀仏は、本願と他力の関係で理解されます。真言密教の大日如来は法身と法界の中心として語られます。しかし、いずれもユダヤ・キリスト教・イスラム教の創造神をそのまま置き換えたものではありません。
仏教は「究極的なもの」を持たないのではありません。究極を、創造神―被造物という一つの形式だけで語らないのです。