ここからは、ほんの少しだけ専門的になります。それでも、学派名を最初から覚える必要はありません。
第I部で分かったのは、「神」という語の意味が一つではないということでした。今度は、文のもう一方にある「私」を分けてみましょう。まずは次の三つだけで十分です。
普段「私」だと思っているもの
↓ それが私の全部なのか
もっと深い意味での自己
↓ それは世界の根本とどう関わるのか
究極的な実在
この部では、シャンカラのアドヴァイタを中心に、この三者の関係を見ていきます。本稿で今後「ヴェーダーンタを基準にする」と言うときも、特に断らない限り、まずこのアドヴァイタの自己理解を指します。
ただし、ヴェーダーンタ全体がアドヴァイタなのではありません。同じ文献を読みながら、個々の魂と神の差異を残す学派もあります。それらは第9章で、「ほかにもこういう答えがある」という分類として短く確認します。まずは複数の学派を同時に覚えず、アドヴァイタの「私とは何か」という問いに集中しましょう。
Vedānta(ヴェーダーンタ)は、文字通りには「ヴェーダの終わり」を意味します。ヴェーダは古代インドで受け継がれた聖なる文献群であり、その後半に位置するウパニシャッドでは、自己、世界、存在の根本が深く問われました。ヴェーダーンタは、このウパニシャッドを中心に発達した複数の思想伝統の総称です。
主要な典拠には、ウパニシャッドの思想を短い命題にまとめた Brahma Sūtra(『ブラフマ・スートラ』)と、戦場での対話を通して行為、知、神への帰依を論じる Bhagavad Gītā(『バガヴァッド・ギーター』)も含まれます。シャンカラ系では、この三群を prasthāna-trayī(プラスターナ・トラヤ、「三つの出発点」)と呼びます。シャンカラは、これら三種の文献へ現存する初期の体系的注釈を残しました。
重要なのは、ヴェーダーンタが一つの答えではなく、一つの大きな問題群だということです。同じ聖典に、究極的な一性を語る箇所も、人格神への帰依を促す箇所も、個々の魂や行為の実在を前提にする箇所もあります。何を中心に読み、矛盾して見える文をどう調停するかによって、学派が分かれました。本章では、その中からシャンカラの読み方を中心に用語を説明します。
ここで、本文に何度も出てくる言葉を少しだけ整理しておきましょう。六語を一度に暗記する必要はありません。まず三つの名詞を区別します。それから、「何が問題なのか」「どこへ向かうのか」を足していけば大丈夫です。
最初は「世界の根本」「真の自己」「生きている私」の三つ
Brahman(ブラフマン)は、世界と自己を成り立たせる究極的な根拠を指します。創造神 Brahmā(ブラフマー)とは綴りも意味も違います。Ātman(アートマン)は自己、とりわけ自己の究極的な本性を問う語であり、西洋語の「個別の魂」と単純には重なりません。Jīva(ジーヴァ)は、生きて経験し行為する個別的な存在を指します。
日常語へ置き換えれば、ブラフマンは「存在全体の根本」、アートマンは「私の最も深い本性」、ジーヴァは「いま、この人生を生きている個別の私」に近いものです。ただし、三つが同じなのか、違うのかについて学派間で意見が分かれるため、この置き換えは入口にすぎません。
次に「取り違え」と「自由になること」
avidyā(アヴィディヤー)は、自己と実在についての根本的な誤認であり、日本語では「無明」と訳されます。生まれて死に、再び生まれることを繰り返す世界観を「輪廻」と呼びます。mokṣa(モークシャ)は、この輪廻と束縛から自由になることであり、「解脱」と訳されます。bhakti(バクティ)は、神を愛し、祈り、帰依する道を指します。ここで帰依とは神を信頼して身を寄せることであり、人間の指導者へ無条件に服従することと同じではありません。
無明は、いわば問題につけられた名前です。解脱は、その問題から自由になった状態を表します。ただし、何を取り違えているのか、誰が何から自由になるのかは、学派によって違います。今は言葉の役割だけ分かれば大丈夫です。
神へ向かう道もある
六語の最後にあるバクティは、神への愛と帰依を表します。シャンカラの思想を知だけの冷たい哲学と考える必要はありません。ただし、解脱の直接の決め手は、自己の本性についての知に置かれます。神と人の差異を最後まで残す他学派では、バクティがさらに中心的になります。この違いは第9章で簡潔に確認します。
本稿でいう日常の「私」
また本稿では、名前、記憶、役割、欲望、自己像などからなる日常の「私」を、必要に応じて「人格的自己」または「人格的自我」と呼びます。これは一人の人間全体を否定する語ではなく、変化する日常の自己と、各思想が説くより深い自己を区別するための便宜的な表現です。
以下の表は、この六語の説明を振り返るための要約です。
| 用語 | 概要 | 注意点 |
|---|---|---|
| Brahman(ブラフマン) | 究極的実在、世界の根拠 | 創造神 Brahmā(ブラフマー)とは別語である |
| Ātman(アートマン) | 自己、真我、自己の究極的本性 | 西洋的な個別の「魂」と単純に同一視できない |
| Jīva(ジーヴァ) | 生きた個体、個別的自己・魂 | 単なる「エゴ」ではなく、学派により位置づけが違う |
| avidyā(アヴィディヤー) | 無明、自己と実在についての根本的な誤認 | とりわけアドヴァイタで重要である |
| mokṣa(モークシャ) | 解脱、輪廻的束縛からの自由 | 何が解放され、何が残るかは学派によって違う |
| bhakti(バクティ) | 神への帰依、愛、礼拝 | 人間の師への無条件服従と同義ではない |
初めて読むときには、「普段の人格的な私」「真の自己」「究極的実在」を分けると理解しやすくなります。とりわけアドヴァイタでは、経験上の個別的自己と純粋意識としてのアートマンの区別が決定的です。この部では、まずこの意味で用語を使います。他学派では同じ語の位置づけが変わることだけ、頭の片隅に置いてください。
つまり、同じ単語でも、学派が変われば意味が変わります。この注意は、後に西洋や現代スピリチュアルで使われる「より高い自己」の諸概念と比較するときにも重要になります。それらの正式名称は、対応する章で説明します。
第I部で見た混線を、ヴェーダーンタでほどく
第I部では、「神」という日本語が、創造神、最高人格神、究極実在、神格、天界的存在、内なる神性まで包み込むことを見ました。同時に、「自分は神」の「自分」も未定義のままでした。
ヴェーダーンタは、この主語側を精密に分けるための道具になります。人格的な私、個別的生命としてのジーヴァ、真我としてのアートマン、究極的実在としてのブラフマンは、単純な同義語ではありません。ここから先の専門語は、知識を誇るためではなく、第I部で感じた曖昧さをほどくために導入します。