「あなたは神」という言葉の幅
まず、「あなたは神」という言葉が、日常の会話でどのような意味に分かれ得るかを並べてみます。宗教や哲学の正式な分類名は、必要になったところで説明します。
| 何を言いたいのか | おおよその意味 | そこから直ちには言えないこと |
|---|---|---|
| 励まし | あなたには尊厳と選択する力がある | 思考だけで外界を自由に変えられる |
| 人の中にも神らしさがある | 人間の内には、日常の欲望だけではない尊いものがある | いまの私の判断が常に正しい |
| 根本では神と人を別々としない | 普段の自分より深いところでは、神と人は二つではない | 日常の私が何でも知り、何でもできる |
| 心が出来事を変える | 意識や信念が行動や経験に影響する | あらゆる被害や不幸を本人が作った |
| 神の考えを知っているとする | 私には神の望みが特別に分かる | だから他者が私へ従わなければならない |
もし私が神なら、どの意味で神なのでしょう。宇宙を造った神、神社に祀られる神、人間の内に宿る神らしさ、あらゆるものが存在するための根本は、同じではありません。
そして「私」とは誰なのでしょう。いま腹を立て、成功したがり、間違える日常の私なのか。その奥にある魂なのか。純粋な意識なのか。「あなたは神」という短い文章は、主語と述語の両方が未定義です。
ライトな会話なら、この曖昧さが人を励ますこともあります。しかし、健康、金銭、災害、他人の意思、指導者への服従まで説明し始めたら、比喩だけでは済みません。そこで本稿は、まず「私」と「神」の左右を確認し、その後に願望、体験、権力を一つずつ加えていきます。
問いを少し広げる――同じ「人は神」が、正反対の意味になる
この違いを、まず普通の言葉だけでまとめます。最初の表では、式の左右だけを見ます。
| 同じ「人は神」の言葉 | 「人」が指すもの | 「神」が指すもの |
|---|---|---|
| 根本では二つではない | 日常の人格を超えて問われる本当の自己 | あらゆる存在の根拠 |
| 人の中に神らしさが宿る | 神らしさを内に持つ人間 | 人間の中にも働く神 |
| 神と人が向き合う | 神と関わる一人ひとり | 知り、意志を持つ神 |
| 神と人が一つになって働く | 神の望みを担う人間 | 人と一つになって働く神 |
| 心が望む出来事を作る | 願望を持つ現在の私 | 創造力を持つ宇宙や源 |
左右が分かると、次に両者を結ぶ線が見えてきます。これは最初から覚える第三軸ではなく、どの人とどの神を置いたかによって生じる関係です。
| 表現 | 二者を結ぶ関係 | そこから向かう方向 |
|---|---|---|
| 根本では二つではない | 非二元 | 日常の自分だけを「私」のすべてと思わない |
| 人の中に神らしさが宿る | 内在 | 神らしさを生活に表す |
| 神と人が向き合う | 関係・応答 | 愛する、祈る、応答する |
| 神と人が一つになって働く | 合一・協働 | 神の望みを世界に表す |
| 心が望む出来事を作る | 創造主体との同一化 | 個人的願望を実現する |
「人間は神である」「すべては一つである」「本当の自分は宇宙とつながっている」。宗教や現代スピリチュアルに触れていると、こうした言葉に何度も出会います。
ところが、これほど意味の幅が広い表現も珍しいでしょう。
ある思想では、「人は神である」とは、普段「私」だと思っている日常の人格を徹底的に問い直す言葉です。別の思想では、人間の内に神から分けられた神らしさが宿るという意味になります。また別の思想では、神と人間は区別されながら互いに働き合う。さらに別の思想では、神と人が一つになって、神の望みを世界に表すと考えます。
そして一部の現代スピリチュアルでは、「私の本質は神的である」という主張が、「私の意識には現実を創造する力がある」「私の願望は宇宙の願望である」という言葉へ接続されることがあります。
これらは、本当に同じことを言っているのでしょうか。
この疑問を考えるきっかけになったのは、ある旅行で、岡山の金光教本部と黒住教本部・宗忠神社周辺、京都の綾部・亀岡にある大本の関連地を短期間に続けて訪れたことでした。同じ「日本の新宗教」という大きな箱に入れられがちな三教です。しかし教義を確かめてみると、神と人間の関係はかなり違っていました。
- 黒住教では、人間は天照大御神から分けられた心である「分心」をいただくとされます。
- 金光教では、天地金乃神と人間が「あいよかけよ」、すなわち双方が共に立ち行く関係として語られます。
- 大本では、神と人が一つになって働く「神人合一」と、世界を神の望みに沿って整える働きが説かれる。
この違いを考えるために、本稿の第II部では、インドで発展したヴェーダーンタという思想伝統を使います。ただし、その専門語はそこで一つずつ説明します。ここで名前だけを先に覚える必要はありません。
そこで本稿は、もっと軽い場所から始めます。「あなたは神である」「宇宙と一つである」「本当の自分には創造力がある」。こうした言葉を聞いたとき、その「神」は創造神なのか、神社の神なのか、内なる神性なのか。その「自分」は日常的な人格なのか、それとも日常の人格を超えた何かなのか。まず第I部で、この素朴な疑問を十分に広げます。
問いの形が見えたところで、第II部からヴェーダーンタへ入る。そこでは、神、世界、一人ひとりの魂の関係について、同じ重要文献から異なる答えが生まれました。その違いを基準にして、日本の三教、世界の諸宗教、近代以降の西洋で組み直された魂の思想、現代スピリチュアル、願いを現実へ呼び込むとされる「引き寄せ」へ進みます。各思想名と用語は、それぞれの章で初めて説明します。そして最後に、「私は神」という思想が、自分だけを中心に考える状態を越える場合と、反対に自分を特別視する場合を分け、宗教的な自己理解が指導者の権力や、構成員を強く支配する組織と結びつくと何が起こるのかを考えます。
ここで、記事の先まで使う三つの問いを置いておきます。
| 見る場所 | 問い | たとえば何を確かめるのか |
|---|---|---|
| 教義 | 教えの上で、人と神は同じなのか | 本来一つなのか、神性を分け与えられているのか、神と人の区別が残るのか |
| 運用 | 実際の人の扱いでも、人と神は同じなのか | 「誰にでも神性がある」と説きながら、普通の参加者の判断や尊厳を軽く扱っていないか |
| 例外 | 講師や代表だけが、特別に神として扱われていないか | その人だけが神意を誤りなく知る、批判できない、通常の規則を超えるとされていないか |
一つ目は思想の問いです。二つ目と三つ目は、その思想が人間関係や組織の中でどう使われているかという問いです。教義では「すべての人が神」と言いながら、運用では代表者だけが誤らない神のように扱われることもあります。反対に、神と人をはっきり分ける教義が、「代表者も一人の人間にすぎない」という権力の制限になることもあります。したがって、教義上の神人関係と、実際の集団内での神人関係は、いったん分けて見なければなりません。
この三問とは別に、比較全体で混同しないための三つの区別も置いておきます。
- 人間の中に神らしさを見ることは、日常の私を神として絶対化することと同じではありません。
- 自分だけを中心に考えないことは、判断力や主体性を指導者へ明け渡すことではありません。
- 構造が似ていることは、歴史的影響を意味しません。
本稿は、神や魂の実在を証明するものではありません。各思想が何を主張しているか、その主張同士をどこまで比較できるか、その語彙が近代以降どう再構成されたか、そして組織の中でどう運用され得るかを考えるものです。
なお、「エゴ」という語は意味が広いため、ここで本稿の用法を確認しておきます。本稿では、特に断らない限り、心理学の厳密な専門概念ではなく、名前、記憶、地位、欲望、自己像などからなる日常の私を、自分のすべてだと思って絶対化する傾向という広い意味で用います。後の章で登場するインド思想や心理学の自己概念には、それぞれ固有の意味があるため、エゴの単純な言い換えにはしません。