顔のある神と、顔のない神
神には、顔があるように感じられる場合と、顔がないように感じられる場合があります。
顔がある神には、話しかけることができます。神は喜び、悲しみ、命じ、許し、愛し、応えます。人間は神を「あなた」と呼び、自分を「私」として向き合うことができます。
私 → 願う、祈る、感謝する
神 → 聞く、導く、許す、支える
この関係では、神と人間は近づくことができても、まずは向き合う二者です。愛するためには、愛する私と、愛される相手がいます。
顔のない神は、誰か一人というより、海や光や空気に近いです。世界全体を満たすもの、すべてを生み出す力、あるいは、あらゆるものが存在できる土台のように語られます。
この場合、神に話しかけることはできるかもしれませんが、「向こうにいる誰か」という感じは弱くなります。神は世界の外から見ている存在ではなく、自分も他人も自然も、その中に現れている大きなものだと感じられることがあります。
日常の言葉では、両方が混ざります。
「宇宙が私を導いてくれた」と言うとき、宇宙は誰かのように意志を持っています。「すべては宇宙の一部だ」と言うとき、宇宙は全体を包む大きな場のようです。「神様にお願いした」と言うときには相手がいますが、「自分の中に神を感じた」と言うときには、神は自分の外だけにはいません。
これは矛盾とは限りません。一人の人が、神を語りかける相手として感じると同時に、世界全体を満たすものとして感じることもあります。
ただし、「祈る相手」と「自分の本質」を同じ神という語で呼ぶなら、どの意味で同じなのかを説明する必要が出てきます。
神は外にいるのか、中にいるのか
神は自分の外にいるのでしょうか。それとも内にいるのでしょうか。
外にいる神は、自分とは別の相手です。自分を造り、自分を見守り、自分に語りかける。人間が間違っているとき、神は人間の外からそれを正すことができます。
内にいる神は、自分のもっとも深いところにあります。良心、本当の願い、静かな気づき、生きる力として感じられます。誰かから押しつけられた命令ではなく、「自分の奥では、もう答えを知っている」と語られることもあります。
どちらにも魅力があります。
外に神がいれば、自分だけの考えを絶対にせずに済みます。自分の欲望と神の望みは違うかもしれない、と考えられます。
内に神がいれば、外の権威にただ従うのではなく、自分の尊厳や良心を信じることができます。「あなたには価値がない」と言われても、人の価値は他人が勝手に取り上げられるものではない、と言えます。
しかし、どちらにも難しさがあります。
外の神の言葉を、誰か一人が独占してしまうことがあります。「神の望みは私だけが知っています。だから私に従いなさい」と言われれば、神への信頼が人間への服従に置き換えられます。
内なる神も、使い方によっては危うくなります。「私がそう感じたのだから正しい」「反対する人は自分の内なる神に気づいていない」と考えれば、自分の思い込みを確かめる道がなくなります。
外か内かだけで、安全か危険かは決まりません。大切なのは、その声が間違う可能性を認められるか、他人の声にも同じ重さを認められるかです。
「自分は神」は、自分を取り戻す言葉にもなる
「自分は神」という言葉を、すぐに大げさな主張だと決めつけるべきではありません。
長いあいだ「お前には価値がない」「黙って従え」「自分で決めるな」と言われてきた人にとって、「あなたの中にも神聖なものがある」という言葉は、自分を取り戻す助けになることがあります。
その人が言いたいのは、宇宙を造ったということではないかもしれません。
- 私の人生を誰か一人の所有物にしなくても大丈夫です。
- 私の身体や心には、粗末に扱われてよい理由はない。
- 私にも選び直す力があります。
- 他人の中に価値があるのと同じように、私の中にも価値があります。
- 失敗した私と、価値のない私は同じではありません。
こう言いたいだけかもしれません。
この意味なら、「自分は神」は人間の尊厳を強く言い直した表現です。厳密な説明ではなくても、その人を支える働きをします。
「世界が味方している」「宇宙に愛されている」という言葉も同じです。文字どおり宇宙に人間のような感情がある、と主張しているとは限りません。孤独の中で、自分は完全に見捨てられてはいないと感じるための言葉かもしれません。
言葉には、事実を説明する働きだけでなく、人を励まし、生きる向きを変える働きもあります。その働きを無視して、すべてを正しいか間違いかだけで裁けば、その言葉がなぜ必要とされたのかを見失います。
しかし、励ます言葉が、そのまま世界の仕組みの説明として使われ始めたら、話は変わります。