251.そして、その思想が売れる社会にも理由がある
だから、この現象を理解するには、「なぜそんなものを信じるのか」だけでは足りない。むしろ、「なぜ今の社会では、この言葉がこれほど魅力的なのか」と問う必要がある。
- 働き続けなければならない。
- 成長し続けなければならない。
- 自分を改善し続けなければならない。
- 未来を自分で設計しなければならない。
- 失敗は自己責任。
- 老後も自己責任。
- 健康も自己責任。
- キャリアも自己責任。
そうした社会の中で、「もう頑張らなくてもいい」という言葉が現れる。それ自体は、かなり自然な反作用なのかもしれない。
252.問題は「休んでもいい」から「宇宙が養う」へ飛ぶところにある
疲れている人に、「休んでもいい」と言う。成果を出せない人に、「成果がなくても人間としての価値は失われない」と言う。すべてを自分で背負っている人に、「他人を頼ってもいい」と言う。未来をコントロールしようとして疲れている人に、「すべてを予測できなくても大丈夫」と言う。
これらは、それぞれ十分理解できる。しかし、
休んでもいい → 働かなくてもいい → 何もしなくてもいい → それでも必要なものは与えられる → なぜなら宇宙は豊かだから
と進むと、途中から別の主張になっている。最初は心理的な救済だった。最後は、世界が個人に物質的資源を供給するという因果法則になっている。この境界を見落とさないことが重要である。
この章で生じうる解釈の乖離
論理的に確認できること 感情が先行した解釈 休息してよいという心理的許可は、生活資源の供給を保証しない 休んでいても、宇宙が生活に必要なものを供給すると考える
253.「頑張らない」は目的ではなく手段だったはずである
本来、頑張りすぎている人が頑張ることを減らすのは、よりよく生きるためである。
- 身体を壊さない。
- 人間関係を壊さない。
- 自分の時間を取り戻す。
- 重要でないことにエネルギーを使わない。
そうした目的がある。つまり、頑張らないことそのものが目的ではない。ところが「頑張らない」がアイデンティティになると、行動することそのものが、「古い価値観」「エゴ」「男性性過多」「宇宙を信頼していない状態」として否定される場合がある。すると、本来は自由になるための思想が、別の行動制約を作る。
254.行動することまで否定すると現実との接点を失う
人間が現実世界で生きる以上、ある程度の行動は必要になる。
- 食べる。
- 移動する。
- 人と話す。
- 契約する。
- 判断する。
- 病院へ行く。
- 仕事をする。
- 畑を作る。
- 家を維持する。
どれほどスピリチュアルな世界観を持っていても、身体は物理世界に存在する。したがって、「執着しない」と、「行動しない」は区別する必要がある。
この章で生じうる解釈の乖離
論理的に確認できること 感情が先行した解釈 必要な行為まで否定すれば、行為を介した結果との因果接続を失う 行動しないほど宇宙の流れに乗り、結果が得られると考える
255.伝統思想にはこの区別が比較的はっきり存在した
たとえば、次のような組み合わせである。
- 結果に執着しない。しかし、行為はする。
- 自然に逆らわない。しかし、必要な行為はする。
- 自我を絶対視しない。しかし、日常生活は続く。
こうした行為と非執着の両立は、多くの伝統思想に見られる。現代の短文化されたスピリチュアルでは、この微妙なバランスのうち、「行為」の側が落ちやすい。
256.「行為しながら委ねる」という第三の道
したがって、「全部自分でコントロールする」と、「全部宇宙に任せる」の二択にする必要はない。
- 自分にできることはする。
- 結果は完全には支配できないと理解する。
- 偶然にも開かれている。
- 人の助けも受け取る。
- 状況が変われば計画も変える。
つまり、行為しながら委ねる。
これは、先に引用した『バガヴァッド・ギーター』の「行為は選べるが、結果は選べない」という考え方でもある。努力万能論と魔法的無行為論の中間にある考え方である。
257.自然農の「何もしない」は、この中間にある
- 自然農を再び例にすると分かりやすい。
- 農家が作物を直接成長させることはできない。
- 植物自身が成長する。
- 太陽がエネルギーを供給する。
- 土壌生物が働く。
- 雨が降る。
だから、人間はすべてを支配できない。しかし、次のことはできる。
- 種を蒔くこと。
- 観察すること。
- 収穫すること。
つまり、自分にできることはするが、成長そのものは自然に任せる。これは「何もしない」とは違う。
258.人生についても同じ比喩なら成立する
この意味でなら、「人生を宇宙に任せる」という比喩にも理解できる部分がある。
- 求人を探す。
- 人と会う。
- 技能を身につける。
- 希望を伝える。
しかし、誰と出会うか、どの会社が採用するか、景気がどうなるか、偶然どんな機会が現れるかまでは完全に支配できない。
そこは、「流れに任せる」。この程度なら、特別な超自然的仮定を置かなくても成立する。
259.「種を蒔かずに収穫だけ待つ」と別物になる
しかし、自然農を、「自然に任せる」という言葉だけで理解し、種を蒔くことまでやめれば、収穫は期待できない。人生も同じである。何らかの入力が必要な領域で、入力そのものをやめ、結果だけを期待するなら、「委ねる」ではなく、結果が偶然発生することに賭けていることになる。
この章で生じうる解釈の乖離
論理的に確認できること 感情が先行した解釈 生産に必要な投入を省けば通常は成果との因果がない 願えば収穫だけ受け取れると期待する
260.もちろん偶然うまくいく人はいる
それでも、何もしなかったのに次の出来事が起きた、という人は存在する。
- 仕事が来た。
- お金が入った。
- 恋人ができた。
人間社会には偶然があるからである。
- 過去に作った人間関係がある。
- 過去の仕事が評価されている。
- 資産がある。
- 家族がいる。
- 偶然誰かが思い出す。
だから、何もしない期間に良いことが起きること自体は不思議ではない。
261.問題は個別事例を普遍法則にすることである
一人の人に、偶然仕事が来た。それは事実かもしれない。しかし、そこから「何もしなければ仕事は来る」という法則は導けない。
会社を辞めたら人生が好転した人もいれば、悪化した人もいる。高額セミナーを受けて人生が変わった人もいれば、変わらなかった人もいるだろう。
法則を主張するなら、どちらの結果も見る必要がある。
この章で生じうる解釈の乖離
論理的に確認できること 感情が先行した解釈 一つの事例だけでは、一般的な因果関係や再現性を示せない 誰かに起きた奇跡は、自分にも同じように再現すると考える